TOP | NEXT

スポンサーサイト 

--年--月--日 (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[--.--.--(--) --:--] スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
↑TOPへ


サクラノ詩を終えて 

2015年10月26日 ()
 
 2015年10月23日『サクラノ詩』は11年の刻を経て発売した。
 そして、10月26日の今日、私はサクラノ詩を読み終えた。


 まずは一言。

 「お疲れ様でした」

 これだけの壮大な物語を十分なクオリティで完成させて世に送り出すこと、それを達成したすかぢ氏をはじめとする制作スタッフにはそう声をかけたい。

 サクラノ詩はもともと「期待にそえる様な出来では無かった」ということで初期の構想から作り直され、さらに何年も延期を重ねてきた経歴を持つ。ユーザーの期待に応えられるクオリティのものができるまで世に出さないという方針それ自体は確かに素晴らしい。
 だが、そもそも、メーカー側が自分達で定めた発売予定時期に作品を作り上げるのは当然のことだ。しかし、発売予定時期になってもユーザーの期待通りの作品が出来なかった時、どうするのか?
 延期できるのならば、延期してクオリティをあげればいい。けれども、そのために会社の経営が傾いては元も子もない。そうやって過去、多くの制作会社が不十分なクオリティの作品を発売したり、怒りの庭のような未完成と称されるような作品も出てきた。
 私もそうやって過去何度か未完成作品や、クオリティが不十分な作品に出会ってきた。そうした時に感じたのは深い落胆だ。作品の紹介ページで期待し、体験版で良作になることを確信して希望に満ちあふれた状態からの発売後の絶望の落差は計り知れない。

 その何年もの延期の成果は、私の期待に見事応えてくれた。そこには私が期待していたテーマがしっかりと描かれていて、素晴らしき日々の次作としての意義は果たされていた。延期は決して良いものではないが、延期してでも必ず良いものを出す、という信用はとても大事なことのように思う。期待にそえるだけのクオリティになるまで発売しない、けれどいつか必ず発売するというすかぢ氏のサクラノ詩に対する決断に間違いはなかった。そのおかげで私はこれだけの物語を受容することができたのだ。


 そして、サクラノ詩を読み終わった今、私はとても満足している。肩の力が大きく抜けた気がする。
 さて、このサクラノ詩で私も一区切りだ。格段楽しみにしているコンテンツもこれでなくなる。すかぢ氏の次回作も楽しみではあるのだが、それもサクラノ詩ほどではない。当分はサクラノ詩を読み解くことを目標に、サクラノ詩に対する自分の意見を書き留めておきたい。おそらくサクラノ詩の感想を掲載して、それからすかぢ論を更新し終わった時、本当の区切りが来るのだろう。
 ということで内容に踏み込んだ感想はまた後日に。今のところは夏コミで発行した体験版の感想の再掲で



 しかし、これでひとつの時代が終わった……
 これからは、「サクラノ詩延期10年目」と言って、暢気にサクラノ詩がいつまで経っても発売されないことをネタにすることもなくなるんだなぁ。
 延期され続けることが日常で、その延期が永遠に続くと思っていたものが発売されて……
 今は一抹の寂しさを感じている。
スポンサーサイト

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2015.10.26(Mon) 23:51] サクラノ詩Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
↑TOPへ


サクラノ詩――櫻の森の上を舞う―― 体験版 感想 すかぢ論2.0(序)梯子の上にある風景 

2015年10月26日 ()


0.11年の歳月を経て発売されようとしているサクラノ詩

 11年の延期を経てついに『サクラノ詩』が世に出ようとしている。
 11年の延期という経歴は嫌が応にも読者の期待度をあげてしまう。多くの読者は生半可な作品では納得しないだろう。それだけの過度の期待に対して『サクラノ詩』はどうやって応えようとするのだろうか?
 11年の延期を経て公開された体験版、その体験版を読み終わり、私は本作がそれだけの期待に応えられるだけの傑作となるポテンシャルを有していると確信した。


1.傑作の息吹を感じさせる出来の体験版

 はじめに傑作の息吹を感じたのは、作品から漂う空気だ。どことなく物寂しげな感じのする序盤。第0章は主人公の父親の葬儀から始まる。世界的に有名な芸術家の息子である主人公、彼はある時を境に絵を描かなくなる。そんな主人公の葬儀中のモノローグが、本作をただの学園ものの萌えゲーとは思わせない独特の空気を出している。

ただ、舞い散る桜を見ている
その風景には、悲しさも、痛みも、なかった。
桜の美しさの中にいる親父の死骸は、
ただ、醜いだけだった。


各所にこのような登場人物の感傷的なシーンが入る。それら後々の物語への伏線を思わせる文章が本作への期待値を上げさせていく。
 さらに頻繁に挿入される哲学や文学の一節が、作品に影を作り、深みを増していく。

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなおのおののなかのすべてですから
『春と修羅』序 宮沢賢治  -第0章冒頭-


愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだときには、
それより他に、方法がない。
『春日狂想』中原中也  -第1章冒頭-


 このように随所で文学作品や哲学書の一節を挿入するのはすかぢ氏の前作『素晴らしき日々』で見られた作風であり、『素晴らしき日々』ほどではないが、本作にも哲学や文学、美術、思想のタームが文章の中に散見される。これが作中の雰囲気を出すのに大いに役立っている。その中でも上記の宮沢賢治著の一節に代表される挿入分は、その一節がテーマになるとして、どのようなストーリーが展開されるのか、期待を高まらせてくれる。
 挿入されている文学作品の中で個人的に期待しているのは2点。ひとつは『春と修羅』の中から引用されている一節。『素晴らしき日々』で見られた偏在転生の思想とも取れるし、独我論的思想とも取れる。冒頭にこの一節を出してきたということは作中で何かしら意味を持つと予想されるが、どのような隠喩となるのか楽しみにしている。
 もうひとつが、第1章で物語が丸々説明されたオスカー・ワイルド著の『幸福な王子』。わざわざ作中で物語の全容を解説し、さらに第5章の章題にもなっているということから『サクラノ詩』の骨子となるテーマであることは間違いないだろう。自分を犠牲にして周囲の人々を救済していく幸福な王子、それはそのまま多くの恋愛ゲームの主人公にも当てはまる。彼ら主人公は何故、他者のために自らを犠牲にしてまでこのような行動を取るのか。後述のすかぢ論でも言及するが、「人は何のために作品を創るのか?」「人は何のために恋するのか?」「他者は何のために存在するのか?」といった命題に対して『サクラノ詩』ではすかぢ氏の思想が見られるのではないかと予想している。

 そしてサクラノ詩が傑作になることを確信したのが第2章「Abend」だ。第1章に散りばめられた伏線を一気に回収していく流れは美しかった。そして何よりも第二章のこの展開に私自身感動した。これだけの感動を作れるなら、第3章以降も同等の感動が待っているなら、サクラノ詩は傑作になるとそう期待している。

 体験版をやっていてひとつだけ気になった点をあげるとすれば、文章の長さだろう。
 シナリオライターのすかぢ氏の特徴として、何事も少々説明しすぎる傾向があるが、本作ではそれが悪い方向に働いている。もう少し登場人物間の会話を絞り込んでいってもよいのではないだろうか? 例えば、料理についてこと細かに解説させたりする必要はあまりないのではないだろうか? また、体験版では誤字も散見された。些細なことだが、物語を最高の形で演出するために、最後までクオリティアップに励んで欲しいところだ。今更あと数カ月延期されようと、それほど気にはならない。11年かけたクオリティをこの目で見てみたい。

 このように作品単体で見て、『サクラノ詩』は傑作になるとふんでいる。11年に一度の名作とまでは言わないが、年に一度の傑作にはなるのではないだろうか。



2.すかぢ論2.0(序)梯子の上にある風景

 『サクラノ詩』のメインシナリオライターであるすかぢ氏。本作がすかぢ氏にとってどのような作品になるのか、最後にすかぢ作品における『サクラノ詩』の位置づけについて考えていく。

 枕の作品紹介ページでは『サクラノ詩』の物語概要について以下のように記載されている。

10年越しのプロジェクトついに始動
凍結され続けていた、サクラノ詩プロジェクトがついに再始動。
「言葉と旋律」「幸福に生きよ」をテーマに書き上げられた「素晴らしき日々~不連続存在~」のすかぢが、そのテーマを踏襲しつつその先の物語である『サクラノ詩』を描ききる。
原画家には狗神煌、籠目を起用。10年越しの物語が実力派スタッフによって結実する。
素晴らしき日々の先の話、梯子の上にある風景は、それは反哲学的物語。ごく自然な日常の物語。


すかぢ作品(主に『素晴らしき日々』)を読んでいないと何を指しているのかさっぱりわからない不親切な物語概要であるが、ここから『サクラノ詩』の位置づけを考える。まず、“梯子の上にある風景”は『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン著)の以下の命題を指していると考えられ、即ち論理哲学論考の先、素晴らしき日々の先を指していると考えられる。

6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け――その上に立ち――それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであることに気づく。そのようにして、私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てなければならない)
私の諸命題を葬りさること。そのとき、世界を正しく見るだろう。


にあたるだろう。

 そして“反哲学的物語”は哲学者ウィトゲンシュタインの書物が多数引用された『素晴らしき日々』とは反するということを指していると考えられる。もしくはウィトゲンシュタイン著の『反哲学的断章』のことを指しているかもしれないが、それはサクラノ詩を全編読んでみてのお楽しみだろう。
 つまり、サクラノ詩はごく自然な日常の物語になるということだろう。それは、5年前のインタビュー(素晴らしき日々の初回特典本)でもある通りである。

『素晴らしき日々』の非日常に対して、日常と向かい合う作品になると思います。『サクラノ詩』でも「幸福に生きよ!」は作品の柱となると思いますが、でももっと先の事、もっと当たり前の事が語られると思います。
はい、当たり前の事を書くのが『サクラノ詩』という作品です。それはそのまま「人間を書く」という事に他ならないと思います。それは『素晴らしき日々』の先にある風景であると思います。


すかぢ氏はこれまでずっと非日常を描いてきた。『終ノ空』『二重影』『モエかん』『素晴らしき日々』……どれも我々の日常からはかけ離れた作品だ。それらの作品で、すかぢ氏は『終ノ空』から『素晴らしき日々』まで11年かけて「生の意義」を探求していった(詳しくは『恋愛ゲームシナリオライタ論集30人×30説+』の拙稿を参照)。

 「人は何故生きるのか?」「何のために生きるのか?」

 その命題に対し、『素晴らしき日々』では「幸福に生きよ!」の一節で生の意義への懐疑を乗り越えた。
 その先にある『サクラノ詩』。すかぢ氏が挑戦する日常の風景。フォーマットはノベルゲーム市場で最も主流の学園恋愛もの。果たして『サクラノ詩』はどうのような作品になるだろうか? 私は『サクラノ詩』におけるすかぢ氏の命題は“創作の意味”であり、そこから“他者の意味”に行き着くのではないかと予想している。体験版では主人公が絵を描かなくなって久しいということが何度も取り上げられている。そのような絵を描かなくなった主人公に対して降りかかる命題は次のようになるだろう。

 「何故、人は作品を創るのか?」「何のために作品を創るのか?」

 この命題に対して、主人公の先輩である明石亘は以下のように語る。

「筆をずっと折っていたお前に……何が分かる……」
「作品を作るという意味の、何が分かるって言う……」
「お前にとっては、多くの人間に認知されるのための作品か? マスコミに騒がれるための作品か?」
「あれが、何のために作られたか……。俺が、あの作品を誰のために完成させたか……」
「作品が何であるか? その言葉、そのままお前に返してやる。 お前はその意味を本当に分かって言ってるのか?」
「あれは他の誰かではない。遠くの誰かのために描いたものではない……。あれは、小牧、小沙智、そしてあいつらを救ってくれた正田神父のために作り上げたものだ……他のなんでも無い」
「だからこそ、もう俺が作者である必要は無い。 俺の名前が残る必要は無い。」
「腑に落ちないか? だとしたら、お前は芸術家としては三流以下だ」
「作品が何のために生まれたのか、何のために作られたのか……」
「我々が何のために作品を作るのか……それさえ見失わなければ問題無い……。 そこに刻まれる名が、自分の名前では無いとしてもだ……」



 「何故創作するのか?」この命題に対して明石亘は他者のためと答えた。それに対して、主人公はどのような答えを導くのだろうか。そして「何のために作品を創るのか?」の先には恋愛ゲームの究極の命題が待っている。

 「何故、人は他人に恋するのか?」 「他者は何のために存在するのか?」

 自己の生の意味に対して言及し続けたこれまでのすかぢ作品に対し、『サクラノ詩』は他者の意味に対して問うのではないだろうか?
 かつてのすかぢ氏は「恋愛がよく分からない」と恋愛に対して懐疑的だったという。そんなすかぢ氏が描く普通の恋愛もの、すかぢ氏が変わっていく姿を、私は『サクラノ詩』に見届けたい。




2015年8月 2次元メディア・コンテンツ研究会 会誌掲載分 転載

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2015.10.26(Mon) 23:11] サクラノ詩Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
↑TOPへ


サクラノ詩 発売に寄せて―11年の刻を経た私― 

2015年10月23日 ()
 
 サクラノ詩が11年の時を経て、ようやく発売されようとしている。

 11年。11年という時は長い。発表当時は高校生だった少年も今はもうアラサーの社会人となってしまった。創作物は完成した瞬間、刻が静止して年を取らないが、現実世界はそうではない。

 2004年に出るのと2015年に出るのとでは、たとえ同じものが出たとしても大きく違う。時の経過は人を変えていく。延期した11年でプレイヤーはその年数だけ成長し、いくつもの創作物を読み解いていくことで創作物への受け取り方も変わってきた。もし仮に、サクラノ詩が2004年に発売されていたとしたら、それは私の人生に少なからず影響を与えていたかもしれない。それだけ11年という時は特別だ。
 そしてクリエイターもまた同様にこの11年で変わっていったことだろう。2004年発表当初と比べて、2015年のサクラノ詩はグラフィックだけ見ても大きく違う。この11年でシナリオライターが変わり、キャラクターデザインの担当者に至っては二度も変わった。特にシナリオライターのすかぢ氏については『素晴らしき日々』の制作を経て、創作物に対する意識は大きく変わっている。


 思えば2004年の当時、その絵を一目見ただけで惹きつけられた記憶がある。白と黒を基調として陰影を大きくつけた配色、数点のキービジュアルを見ただけで、根拠もなく名作のオーラを感じとっていた。『終ノ空』『二重影』『モエかん』エッジの効いたケロQの過去作の思い出もまた、『サクラノ詩』が同じく尖った作品になることを期待させた。
 それから2008年、第一章「春ノ雪」の公開。そして明るい日常ドタバタ劇の中にところどころ挟み込まれる影のある文章が、ただグラフィックが美麗なだけでの作品ではなくシナリオ面でも良作になることを期待させた。この時点で私は既にサクラノ詩に95点という期待値を出している。
 そして2010年の『素晴らしき日々』。すかぢ氏の全てをかけたこの作品は数年に一作の出来の傑作だった。たまたますかぢ作品を全て読んでいたというそれだけの理由で担当することになった『恋愛ゲームシナリオライタ論集』のすかぢ論担当。論考では"11年にわたる生の意義の探求"というテーマですかぢ氏の作品全ての変遷を辿っていった。そして、論を完成させた先に辿り着いたのはすかぢという人物がこの先どのような作品を世に送り出していくのか、『素晴らしき日々』の先の景色が見たいという気持ち。すかぢ作品と出会ったがために、私は『サクラノ詩』の最後を見届けなければならなくなった。

 こういった背景があるからこそ、このサクラノ詩に対しては特別な思い入れがある。そして、このような発売前から特別な思い入れのある作品も私には最後になるだろう。サクラノ詩、ノベルゲーム史上最長の延期作品。ノベルゲーム史上最後の大作というには大げさだが、私の中では最後と言ってしまっても過言ではない。『魔法使いの夜』も2012年に発売し、いよいよ残るは『サクラノ詩』だけだ。


 別にノベルゲームを引退するわけではないけど、この『サクラノ詩』の発売が私のノベルゲーム人生の節目になることは間違いないだろう。

 ノベルゲームを始めとするコンテンツを追いかけることに全力を注いだこの十数年、駆け上がった梯子の上にはどんな風景が待っているだろうか?




        2015年8月 2次元メディア・コンテンツ研究会 会誌掲載分 転載

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2015.10.23(Fri) 01:25] サクラノ詩Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
↑TOPへ


近況(2014年8月) 

2014年08月11日 ()
 どうもお久しぶりです。udkです。
 約一年ぶりのブログ更新ですね。最近はブログ更新もめっきり減ってしまいましたが、そのかわりにサークルの方の会誌制作の方に取り組んでいます。昨年の冬コミでは『百合SF』という会誌でまどか☆マギカ叛逆の物語特集をやったりしていました。
 で、今年の夏はループ特集の会誌を発行します。今回の会誌は私自らが編集長となって制作しました。以前発行した『円環の理』のリメイクですね。このブログでも告知記事を掲載しています(http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-675.html)。今回はリメイク(ループ)ということで、前回の会誌を大幅に見直し、各記事のクオリティアップならびにボリュームアップ(3倍以上のボリュームです)をはかりました。
 私がこれまで制作してきた本の中では一番の会誌『本当はこのループ作品がすごい!』、よろしければお手に取り下さい。
 

 以下、阪大SF研の告知記事と同じものを掲載しています。

 ・C86新刊告知 『本当はこのループ作品がすごい!』 ループ作品評論の決定版!

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2014.08.11(Mon) 23:29] 日常Trackback(0) | Comments(1) 見る▼
↑TOPへ


COMMENT

承認待ちコメント by -

コメントを閉じる▲

C86新刊告知 『本当はこのループ作品がすごい!』 ループ作品評論の決定版! 

2014年08月11日 ()


  本当はこのループ作品がすごい! 表紙

 誌  名   『本当はこのループ作品がすごい!-円環の理Rebellion -』
 サークル  大阪大学SF研究会
 日 時   コミックマーケット86最終日(8月17日) 東Q-44a
        文学フリマ大阪(9月14日)
 特  集     特集1 古今東西のループ作品を紹介 「ループ作品ガイド100」
           特集2 ループ作品を徹底考察「ループ作品論25」
           特集3 ループにまつわるコラム
           巻末付録 「ループ作品全リスト」 
           その他にもループに関する多数の記事を収録
 形  式   A5 216ページ
 予  価   1000円



■ ループ作品ガイドおよびループ作品論の決定版

 今回の会誌のテーマはなんと「ループ」です!
 昨今、流行のループ作品で特集を組みました。下記特集の他、様々なコンテンツが掲載されています。
 阪大SF研の総力を結集した「ループ作品ガイドおよびループ作品論の決定版」
 夏コミと文学フリマ大阪はぜひ大阪大学SF研究会までお越し下さい。
 キュゥべぇの赤い目玉が目印です。
 当会きってのループ作品研究家の編集長(udk)がスペースでお待ちしております。






- Contents Outline-


  本当はこのループ作品がすごい! 目次

■ 古今東西のループ作品を紹介「 ループ作品ガイド 100」

■ ループ作品の中身を徹底考察「 ループ作品論 25」

■ ループを境界から見つめ直す 「 ループ境界作品論」

■ SF研で人気のループ作品はこれだ!「ループ作品人気投票 結果発表」
■ ハリウッド版公開!『All You Need Is Kill』展開予想&視聴レポート
■ ループ映画 「バタフライ・エフェクト シリーズ」全レビュー

■ ループにまつわるコラム
    ・ SF研はループをこう定義する「ループ作品の定義」
    ・ ストーリーバリエーション分析「ループで何が描かれているのか?」
    ・ ループ作品の変遷と未来
    ・ 輪廻転生に見るループ性およびループ作品との対比
    ・ 『ツァラトゥストラ』をループものとしてを読む
    ・ 永劫回帰の物理的読み解き方
    ・ ミステリ作品におけるループの使われ方

■ 座談会
    ・ SF研が登場する打ち切りループ漫画「ガールズ・ゴー・アラウンド座談会」
    ・ 果たしてこれはループなのか?「 一週間フレンズ。座談会」

■ 最強のループ男達の記録!「大阪大学SF研究会ループ人物史伝」
     『在学期間十二年 SF研最強のループ男』 他

■ 徹底調査「ループ作品全リスト」



 上記コンテンツの『本当はこのループ作品がすごい!』でお待ちしております。
 夏コミは C86最終日(8月17日) 東Q-44a 大阪大学SF研究会 まで是非お越し下さい。



【この紹介にデジャブを感じるそこのあなたに朗報】

 既刊のループ特集号『円環の理』をご持参いただいた方にはなんと、100円 200円 引きのキャンペーンを実施中です。この機会に三倍以上のボリュームにパワーアップした本会誌を是非お求め下さい。

  円環の理 表紙






▼ 既刊も好評頒布中!

 滅亡SF  絶望SF

 


続きを読む↓


- Contents Detail-

■ 総力特集 ループ作品ガイド 100

 古今東西のループ作品約100作のガイドを掲載。
 各作品を12のタイプに分類して紹介しています。
 新しくループ作品を読むときの参考にどうぞ。

  ループ作品ガイド1
  ループ作品ガイド2



■ ループ作品の中身を徹底考察「 ループ作品論 25」

SF研会員によるループ作品の作品論を約25論掲載。作品紹介風のものから作品考察やループに関する自論、はては作家論まで、SF研会員達の多種多様なループ作品に関する論考をお楽しみ下さい。

  作品論_リライト
  作品論_エンドレスエイト


  作品論_ムジュラの仮面



■ ループを境界から見つめ直す 「 ループ境界作品論」

本誌の定義からは漏れてしまったループ鏡界作品に関する作品論を掲載。境界から分析することで違った角度からのループ論考が見られます。

  anti-loop作品としての『君と彼女と彼女の恋。』   



■ 特集

SF研で人気のループ作品はこれだ!「ループ作品人気投票 結果発表」
ハリウッド版公開!『All You Need Is Kill』展開予想&視聴レポート
ループ映画 「バタフライ・エフェクト シリーズ」全レビュー

  AYNIKレポ
  バタフライエフェクト特集



■ ループにまつわるコラム

・ SF研はループをこう定義する「ループ作品の定義」
・ ストーリーバリエーション分析「ループで何が描かれているのか?」
・ ループ作品の変遷と未来
・ 輪廻転生に見るループ性およびループ作品との対比
・ 『ツァラトゥストラ』をループものとしてを読む
・ 永劫回帰の物理的読み解き方
・ ミステリ作品におけるループの使われ方

  ループ作品の定義
  『ツァラトゥストラ』をループものとして読む
  永劫回帰の物理的読み解き方




■ 座談会

1. SF研が登場する打ち切りループ漫画「ガールズ・ゴー・アラウンド座談会」
  ~ SF研としてのリアリティ。打ち切りループ漫画のありえた未来を想像する ~
2. 果たしてこれはループなのか?「 一週間フレンズ。座談会」
  ~ 一週間フレンズが切り開く新しい記憶リセットものとしての境地 ~

  GGA座談会 一週間フレンズ座談会



■ 最強のループ男達の記録!「大阪大学SF研究会ループ人物史伝」

1. 永遠に続く夏休み、始まらないIIセメスター 終わらない日常を体現する男
2. 「私は何度でも繰り返す」 『叛逆の物語』を50回見た男
3. へし折ったフラグは同級生・後輩・妹の三人 救済を拒み続ける男
4. 部室への愛はSF研ナンバーワン 八ヶ年計画に失敗した男
5. いつか終わってしまう学生よりも、永遠に通い続けられる社会人を「げんしけん』班目を体現する男
6. 「私の戦場はここじゃない」 センター試験を五回受けた男
7. 在学期間十二年 SF研最強のループ男
Ex. 何故ループだったのか? ――ループ作品評論誌を制作するに至った人間の軌跡――



■ 徹底調査「ループ作品全リスト」

 ループ作品234作の一覧を掲載。

  ループ作品一覧










閉じる↑

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2014.08.11(Mon) 23:03] ノベルゲーコラムTrackback(0) | Comments(0) 見る▼
↑TOPへ


叛逆の物語 感想 ~救済と犠牲の物語あるいは願望の成就と代償の物語、虚淵式ハッピーエンドの物語~ 

2013年10月27日 ()

 ネタバレ注意


 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』についての感想です。
 まだ観てない人はネタバレがあるのでご注意を。



劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 (1)(まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 (1)
(まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

(2013/11/12)
原作:Magica Quartet、漫画:ハノカゲ 他

商品詳細を見る



続きを読む↓





■ 叛逆の物語 感想
  ~救済と犠牲の物語あるいは願望の成就と代償の物語、虚淵式ハッピーエンドの物語~



 sonyのダウンロードストアで先行配信されてた『カラフル(Claris)』を聴いていたら、オープニングのサビの部分が目に浮かんでふいに涙が零れてきた。
 叛逆の物語はオープニングのあの部分が何よりも目に焼き付いている。ポップなメロディに魔法少女達が笑顔で登場するオープニングの中で異彩を放つサビのカット、4人の魔法少女が楽しそうに踊っている後ろでほむらがひとり打ちのめされている光景、あの光景が叛逆の物語を如実に現わしている。はじめに流れたあのオープニングで想像してしまった叛逆の物語の結末、見終わった後にそれが現実のものとなって、『カラフル』から、いや『叛逆の物語』からそのイメージがはなれなくなってしまった。

 叛逆の物語はほむらによる叛逆であり、彼女の物語だった。この叛逆の物語で4人の魔法少女は完全に救済された。ほむらが願いに願ったまどかもアルティメットまどかの役割から解き放たれた。しかしまどかの救済という願望を達成したほむらはその代償を背負い犠牲となってしまった。何度ループしても、どんな犠牲を払ってでも叶えたかった願望、それが達成した彼女にとってそれは幸福な結末に他ならない。それが視聴者が臨むハッピーエンドなのか、それは叛逆の物語では関係ない。叛逆の物語はほむらによる叛逆であり、彼女が追い求めたハッピーエンドなのだから。いや、彼女だけが求めた結末という言い方は間違いだろう。正しくは彼女達が求めた結末だ。ほむらの意思を後押したのは魔女世界でのまどかに他ならない。あの時のまどかとの会話がほむらにそう決断させたのだ。彼女は皆が幸福に過ごせる夢の世界ではなく、代償があろうと彼女達は現実のまどかを救う世界を選択したのだ。

 劇場で見終わった後、周りの観客からバッドエンド……という声がちらほら聞こえてきた。ほむら救済のための次回作があるのではないか、とも。確かにそう見る方が自然な流れだろう。ぼやかしているところは多いし、ほむらの救済は未だかつて行われていないのだから。では、ほむらの救済、それは物語にとってなされても良いものなのか? いや、それはなされてはならないだろう。ループというやり直しに加えて、悪魔による自身の望む世界に改変した代償、言い換えればほむらの罪は何らかの形で背負わなければならないのではなないだろうか。それが叛逆の物語の中で虚淵玄がほむらに対して譲歩できなかった点であり、叛逆の物語はその中で用意した最大限のハッピーエンドなのではないだろうか。まどかとほむらふたりともが犠牲になった『永遠の物語』からまどかは救済されるが、ほむらは代償を背負う、虚淵はきっとそう考えて叛逆の物語を作ったのだろう。

 そんなことを考えながら、私はこれから何度目かになる叛逆の物語をまた観に行く。救済と犠牲の物語あるいは願望の成就と代償の物語、虚淵式ハッピーエンドの物語を。







■まどかマギカ 考察用参考資料


□劇場版前編『始まりの物語』、後編『永遠の物語』

 ▼ふたりの魔法少女の立ち位置
    ほむほむ:自身を犠牲になろうともループしてまどかを救済しようとするも叶わず
    まどか :自己を犠牲として円環の理(アルティメットまどか)となり、
         ほむほむ含め全ての魔法少女の救済を達成

 ▼結 果 
    救済対象:全魔法少女(まどか除く)
    犠牲:まどか
    ほむほむの願望:叶わず

 ▼参考:まどかマギカ構造
    ほむほむ:自身を犠牲にしてまどかを救済しようとする
    まどか :自身を犠牲にしてほむらを救済しようとする
    ・どちらかの願いが実現すると、どちらかの願いは叶わない。
    ・どちらの願いも叶えるためには打開策が必要。


□新編『叛逆の物語』

 ▼ふたりの魔法少女の立ち位置
    ほむほむ:自身を犠牲にして悪魔となり、円環の理からまどかの人格を分離、救済を達成
    まどか :アルティメットまどかの役割としてほむほむの魔女化を救済しようとするも叶わず

 ▼結 果
    救済対象:全魔法少女+まどか
    犠牲:ほむほむ
    ほむほむの願望:成就

 ▼参考:代替救済案
    ほむほむの魔女世界(理想世界)は、ほむほむ・まどかともに選択せず、否定。




閉じる↑

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2013.10.27(Sun) 07:03] アニメ感想Trackback(0) | Comments(4) 見る▼
↑TOPへ


COMMENT

by 555
私のほうはよくない作品だからではなく、
よかったからこそバッドエンドだと思いました。
ちなみに最速上映終了後に酒鬼薔薇聖斗の物語と言っていました。
虚淵玄も世代的には同じで、あのときの元少年の背景要因と同じものが
今回の物語で昇華したのだと考えてもよいのではないかと思います。
ちなみにインキュベーターのヘゲモニーによる秩序が覆されて彼らを汚猥同然にしたエピローグは小気味よさを覚えました。

承認待ちコメント by -

承認待ちコメント by -

承認待ちコメント by -

コメントを閉じる▲

WORLD END ECONOMiCA レビュー ~ライトノベルからノベルゲームへの越境~ 

2013年10月24日 ()
 
WORLD END ECONOMiCA Episode.3[同人PCソフト] タイトル    WORLD END ECONOMiCA
 メーカー   Spicy Tails
 発売日    2013年8月12日
 シナリオ    支倉凍砂
 原画      上月一式
 ディレクター 蒼井亜璃夏
 プレイ時期  2013年10月
 プレイ時間  約20時間
 評点       85



続きを読む↓



■流れに逆行するライトノベルからノベルゲームへの越境


 ノベルゲームのシナリオライターのライトノベルへの「越境」という意味合いのフレーズ、一度は耳にしたことがあるあるだろう。実際にシナリオライターがライトノベルもしくは一般文芸で新作を発表する事例は既に何十とある[*1][*2}。
 しかし、逆にライトノベル作家がノベルゲームのシナリオライターになるというのはほとんど耳にしたことがないのではないだろうか[*3][*4]。ノベルゲームからライトノベルへの人材移動は頻繁に見られるが、逆にライトノベルからノベルゲームの方向にはほとんど見られない。その様は正に人材の「流出」だ。この「流出」の原因は様々なものが考えられるがここではその考察については省略する。
 さて、ライトノベル作家がノベルゲームを制作する珍しい事例のひとつが、支倉凍砂が手がける本作『WORLD END ECONOMiCA(WEE)』だ。電撃文庫の『狼と香辛料』の著者 支倉凍砂と言えば耳に覚えがある方も多いだろう[*5]。私も『狼と香辛料』の支倉凍砂が同じく経済ものの新作をノベルゲームで出すということで本作を購入に踏み切った口だ。そこには作家買いというのともう一点、ライトノベルでそれなりに人気ある作家が新作を小説ではなくあえてノベルゲームで出すということで気になることがあったからだ。ノベルゲームで出すからにはその物語をノベルゲームで出す理由があるのではないかと。
 そして本作を最終章まで読んだ結果、傑作だった。本作の題材と尺を考えれば、この物語をノベルゲームで出したというのは正解だったと言えよう。



■ノベルゲームを選んだ物語 ―新経済圏"月面都市"を描く経済SF―

 中世西欧の世界観で経済ネタ片手に主人公とヒロインのいちゃつき道中を描くのが『狼と香辛料』とすれば、近未来の月面都市の世界観で経済ネタをふんだんに使って主人公の成長譚を描くのが『WEE』だろう。題材的にはSF色・経済色が強く、電撃文庫よりはハヤカワ文庫JAの方が似合う[*6]。むしろこの内容ではSF色・経済色が強すぎるために電撃文庫で出すのは厳しいかもしれない。かといってハヤカワだと美少女ヒロインが出てきすぎかも。特に内容を気にせず好きなことを好きなように描けるというのは媒体をノベルゲームに選んだ利点だろう。
 シナリオには支倉凍砂がやりたいことを好き勝手やった感じがよく出ていて、新経済圏"月面都市"の発展していく様を緻密に描いていくのは、経済分野に強い支倉凍砂ならではだろう。月社会と月経済の描写としてはSFとしても十分に通用するレベルだ。単純に新しい経済圏が誕生したということではなく、それが月面であることを物語にうまく組み込んでおり、月を舞台に選んだ必要性も十分満たしている。その月面の舞台も文章と絵の双方で描くことができ、月面都市という未知のSF世界もノベルゲームではビジュアルつきになることで容易く想像することができる。かといってビジュアル面で強いからってアニメーションでは難しい。経済SFの世界を描くには文章による解説と絵による描写の双方が必要であるからだ。絵による補佐があれば、難解な設定や金融取引についても容易に解説できる。
 シナリオの配分は、月社会・月経済が四割、主人公が四割、おっさん一割、ヒロインその他が一割[*7]といったところで、見所のひとつは激変する月の経済情勢とそれを利用した超高額の取引だ。物語は主人公が新興の月市場で株取引をするところから始まる。はじめは個人で株式のデイトレードをしているだけだが、そこに金融数理を用いたシミュレーションを取り入れたりして手法を凝らし、さらに投資ファンドを作り資金を拡充させ、単なる株取引だけでなく債権取引にまでスケールが広がっていく。話が進むにつれてスケールアップしていく金額は圧巻で、第一部の知人の財産をかけた株取引に始まり第三部では国家予算規模の金額を扱うことになる。最終的には月経済の激変によって、月面都市の終焉の運命までをも彼は背負うことになる。金融取引はギャンブルにもよく似ていて、物語山場のここぞという時の駆け引きがとてもおもしろい。そして本作のギャンブルは史上最高額の賭けだ。国家予算規模の金額をその手に賭ける。そんなものがおもしろくないわけがないだろう。勝てば全てを手に入れ、負ければ全てを失う状況での主人公の決断、そこは光るものがあった。金融工学の手法をドヤ顔で披露して莫大な金額を稼いでくるキャラクターや金融業界の裏を操っているキャラクターを知略で出し抜いて、最高の取引を達成した瞬間は爽快のひとことだった。
 もうひとつの見所は主人公そのもので、彼の金融取引を通じて成長だろう。失敗してどん底に落ちようと、それを周囲の人たちと乗り越え、さらにその経験を糧に成長し突き進む主人公の姿は見ていて感動した。彼ならば、この取引の舞台に立つのもふさわしい、そう納得させるだけ説得力が彼の成長にはあったように思う。



■ノベルゲームに詰め込まれた物語

 そんな激動の物語が総計20時間前後のパッケージに詰まっている。本作は尺の面でもノベルゲームに適していた。全三部構成の一部あたり6~8時間程度の読了時間。これを単純に小説に移行しようと一部あたり1冊にまとめようとすると非常に厳しい。かといって上下巻に分けると、各部後半に見せ場を持ってきているため、上巻で読むのをやめてしまう人が続出するだろう。尺を自由にデザインできるゲーム媒体、本作のように20時間にも及ぶ長い物語をひとつのパッケージにまとめられるのはノベルゲームの強みだ。
 絵と音楽を使ったクライマックスの盛り上げ、エンディングムービー中に流れるエピローグ、それらもまた媒体を活かした演出であり、強みだ。ノベルゲームとしての細部の作り込みはまだまだ改良の余地はあるが、第一部、第二部、第三部と演出技能が大きく向上しているのを考えると、この蒼井亜璃夏率いるこのサークルはこれからも伸びていくのではないかと期待している。

 もともとの物語がノベルゲームに適していたのか、脚本を執筆するうちにノベルゲームに適するように作ったのか、それはわからない。だが、『WEE』は間違いなくノベルゲームで出すに適した物語だったし、そのように作られていた。流れに逆行するライトノベルからノベルゲームへの越境の意味は確かにそこにあったのだ。






 ……



 …………



 ………………




 でも、シナリオライターの支倉凍砂にとってノベルゲームであるかどうかは些細なことだろう。
 彼はきっとケモノ耳としっぽの絵を見たかっただけだろうから。
 小説と違って、ノベルゲームでは彼の大好きなケモノ耳のビジュアルがずっと表示されているのだから。
 月面都市にはケモノ耳キャラクターを出せないからといって「ケモノ耳パッチ」をわざわざ用意するあたり、彼のケモノ耳属性はホンモノだったようだ。








[*1] 3年前の資料ですが参考までに……。エロゲ出身ラノベライター・コミック原作・アニメ脚本家 http://dakuryu.sblo.jp/article/58519701.html
[*2] ノベルゲームとライトノベル、両方を出し続けている作家もいれば、完全にライトノベルに転向している作家も存在する。
[*3] 自身のライトノベルのゲーム化は除く。ライトノベル作家が制作したノベルゲームだと、七月隆文「天使郷 -ヘブン-」。全部一人で制作したゲームです。絶賛積まれています。ポリフォニカは当てはまるか難しいところ。他には[*1]のリンク先に何名か。
[*4]もともと同人小説・WEB小説書いていた人がノベルゲームのシナリオライターになった事例は多数。本作の事例は商業ノベルゲームではなく同人ノベルゲームなので厳密には違う。商業ノベルゲームと同人ノベルゲームだと流通が異なるのと商業は同人ほど自由な作風で描けないかもしれない。
[*5] 狼と香辛料……途中の巻から絶賛積まれています。全部読んでないのに狼と香辛料とWEEの二作を比較してすみません……。WEEよかったし、香辛料も最後まで読んでみよう、うん。
[*6] 最近のハヤカワ文庫JAはライトノベル作家が多数流入してきているのでピッタリだろう。ハヤカワ文庫JAもライトノベル作家が流入してきてライトノベルっぽくなっているのだが、間口が広がるのは個人的に歓迎なので。好きなSFの作風はライトノベルっぽいSFです。ハヤカワに足りないのは美少女成分だと常々考えているので、ラノベを見習ってもっと美少女成分をですね……。
[*7]ハガナもいいけど、エレノアも好きです。それよりバートンがいいおとk、げふんげふん。
[*8]ライトノベルからノベルゲームへの越境は今後も継続的に起こりうるか、作品自体にはあまり関係しないので別枠で。







■ライトノベルからノベルゲームへの越境は今後も継続的に起こりうるか[*8]

 本作がノベルゲームで世に出たのは、支倉凍砂がノベルゲームを作ることができる環境にあったというのが大きい。
 「作ることができる環境にあったから作ってみた」このノベルゲーム制作の条件にあてはまる人の数は作家の数に比して圧倒的に少ない。ゲームのシナリオを書いてみたいと考える作家がいてもゲーム制作の環境がなければ作品は生まれない。小説だと出版社によって整備された環境があるというのは大きい。小説と比べてゲームは制作のために必要な人を揃えるというのは大きな障害になっているだろう。個人でノベルゲームを作れるようなソフトはあるにしろ、完成させるために必要な労力は単に小説を書くのと比べものにならない。作家がその物語に最も適した媒体を選択可能であるという状況は理想だが、実際は作家の選択肢がある媒体以外に存在しない場合が多い。
 同人サークルを率いている本作のディレクター「蒼井亜璃夏」と「支倉凍砂」は巡り合わせがよかったのだろう。ゲームを作りたいという作家とゲームを作る能力を持つディレクターの出会いは運命的といっていいくらいの確率ではないだろうか。
 おそらくは、このような巡り合わせがもっと増えれば、ライトノベルからノベルゲームへの越境はもっと起こるし、両者の間の流動性が強まりることでより良い作品が生み出されるのではないだろうか?





閉じる↑

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2013.10.24(Thu) 23:11] ノベルゲーレビューTrackback(0) | Comments(1) 見る▼
↑TOPへ


COMMENT

承認待ちコメント by -

コメントを閉じる▲

君と彼女と彼女の恋。 レビュー ~恋愛ゲームを評論する"メタ恋愛ゲーム"が提起した選択の価値~ 

2013年07月22日 ()
 

君と彼女と彼女の恋。初回限定版 タイトル        君と彼女と彼女の恋。
 メーカー        NitroPlus
 発売日        2013年6月28日
 シナリオ        下倉バイオ
 原画         津路参汰 
 プレイ時期       2013年7月
 プレイ時間       約14時間
 評点           87





■ 前置き

 この記事には作品に関する多大なネタバレが含まれています。形式上告知しておいた方がいい作品なので前置きを載せておきます。その代わりと言ってはなんですが、ニトロプラスの作品紹介ページで著名シナリオライター・編集者によるプレイレビューが公開されています。本作未読の方は先にこちらをどうぞ。

 ・君と彼女と彼女の恋。 プレイレビュー(NitroPlus)

未読の方には誇張しすぎと感じるコメントばかりですが、既読の私からするとあながち間違ったことは言ってないと思うのでぜひどうぞ。中澤工や田中ロミオのコメントが読めます。私の評論に満たない拙い文章よりはプレイビューの方が説得力があるでしょう。

 『君と彼女と彼女の恋。』ですが、一見さんはともかく、このサイトに何度も足を運んでくださっているような方にはオススメなので、可能ならばご一読下さい。素晴らしいとと絶賛するかクソと非難するかの二択の反応になると思うのでぜひ。
 あ、このレビュー記事のタイトルが既にネタバレだとかそういう話はご容赦を。



続きを読む↓

 



君と彼女と彼女の恋。 レビュー
~恋愛ゲームを評論する"メタ恋愛ゲーム"が提起した選択の価値~



■ 1.物語ではなく評論であること

 本作を読んで感じたのが、この作品は物語性よりも評論性の方が強いのではないかということ。物語なのに評論というと矛盾と感じざるをえない。では何が本作を私に評論と感じさせるのか? それは、問題意識から発生する完全なるテーマ先行、ジャンル内問題点の提起とそれに対する回答だろう。だが、私の感じ方を決定づけたのはそれだけではない。最大の要因は本作のギミックである登場人物がプレイヤーたる私達に向けて直接語りかけるところにある。登場人物のプレイヤーへの語りかけがあたかも評論家から読者への論の提示のように感じたのだ。
 このプレイヤーへの語りかけそれ自体は珍しいものの、今までにそういった作品が存在しなかったわけではない。私の体験だとKID中澤・打越の某作品が初であるけれども、それ以前にも以降にもそうした作品自体は存在している。しかし本作ほど恋愛ゲームに内在する問題点というテーマに対してこの手段を使って真っ向面からぶつかった作品に私は未だ出会っていない。この強いテーマ性とギミックが本作の評論性を高めるのだろう。誰もが一度はやろうと考えたが実践されなかったこのテーマ、それを正面きって書ききったその事実は賞賛に値する(このテーマを表面化させることの是非はおいておいて)。
 では本作では何をどうやって論じたのか?本稿ではそれを考えていく。




■ 2.恋愛ゲームを評論する"メタ恋愛ゲーム"


 2-1.恋愛ゲームにおけるメタ恋愛ゲーム

 本記事の冒頭で紹介したプレイレビューを読むと、本作を評するにあたって"エロゲー"、"美少女ゲーム"、"ギャルゲー"、"ノベルゲーム"、"アドベンチャーゲーム"、"ゲーム"とレビュアーによって様々な呼称で本作と本作の属するジャンル・媒体を呼んでいることがわかる。話者によって論ずる対象や見方が変わってくるこの分野の興味深い傾向であるが、それぞれの語句について意味を言及するのは長くなるのでここでは避けておく[*1]。上記のように多くの呼称が存在する中、私は本作を恋愛ゲーム[*2]とした。それは本作が"エロゲー"、"美少女ゲーム"、"ギャルゲー"における恋愛そのものがテーマであること、また小説や映像といった媒体とは違う"ゲーム"であることが重要な意味を持つことからそうした。
 さて、私は本作をメタ恋愛ゲームと評するが、その"メタ"とは何か? 私は以下のように考えている。

 登場人物がこの世界はゲームであると認識していること。
 ゲームの中でも、制作者とプレイヤーが高次に存在している恋愛ゲームの世界であると認識していること。


 本作ではこのメタ条件ひとつを前提にそれをふくらませて物語を構築している。このメタ世界は実際に登場人物の種々の言動に現れている。

  ・ゲーム内で定められている登場人物としての役割を全うしようとする。
  ・ゲームを管理している上位存在と連絡を取り、ゲーム内容のアップデートを依頼する。
  ・ゲームプログラムを自分の思い通りに書き換え、自己の世界を構築する。
  ・ゲームのプレイヤーに向けて話しかける。


 登場人物がゲーム世界であることを認識しているがために、このように通常の作品では奇異にしか見えない言動が本作ではそこかしこに見えるのだ。


 2-2.恋愛ゲームに内在する特異性

 では、このメタ構造によって本作は何を論じようというのか? 本作が問題提起している恋愛ゲームに内在する特異性とは? 作中で挙げられた特異性は以下の5つである[*3]。

(A)複数ヒロイン制で選ばれなかったヒロイン
 主人公が特定のヒロインにルート確定させたのなら、他のヒロインはフェードアウトしなければならない。攻略されなかったヒロインの末路を考えてはならない。[*4]

(B)ヒロインの処女性の確保
 攻略対象たるヒロインは、主人公以外に結ばれる未来はない。それは呪いにも似ている。

(C)ヒロインのエロさ(エロゲーに限る)
 エロゲーのヒロインは物語上必要なくともエロくなければならない。それはプレイヤーの欲望に応えられるように作られる。

(D)プレイヤー・制作者の愛の欺瞞
 どれだけ主人公と永遠の愛を誓ったとしても、主人公は他のルートでは別のヒロインと愛を誓う。プレイヤーは罪悪感無く、ヒロインを切り捨てる。

(E)一回性の欠如(選択の軽視)
 登場人物にとってどんな重大な選択も、セーブ・ロード機能によって簡単に選択肢による未来の差違を確認することができる。それは、プレイヤーに限り一回性は存在せず、選択することそのものが軽視されていることにつながる。


作中に出てきたもので私が覚えていたものを5つあげた。当然のことながら、上記5点は全ての恋愛ゲームに当てはまるわけではないし、この他にも恋愛ゲームであることの弊害は存在する。しかし、主要な恋愛ゲームは概ねこれらを満たしているし、これらが恋愛ゲーム故のもので、原則守らなければならない不文律であることも理解できるだろう。
 このような不文律はどれも普通に考えたらおかしいことだが、恋愛ゲームではお約束となっている事柄であり、特異だとわかっていても制作者・プレイヤーともにあえて無視している。たとえそれを指摘したとしても、お約束だからと笑って済まされることだろう。しかし、ゲーム内のヒロインにとってそれは笑って済まされる話ではない。そこに生きている者にとってはたかがゲームではないのだ。恋愛ゲームのヒロインとされた彼女達は、ユーザーと制作者の欲望によって産み落とされた呪われた自分達に対して悲鳴をあげ、恋愛ゲームという運命に抗おうとする。
 このように本作では恋愛ゲームに内在する特異性をヒロインが意識し抵抗しようとするが、結果的に(A)~(C)の不文律においてはプレイヤーに提示するだけで解決案は提示していない。その代わり(D)および(E)に対してはその回答を提示している。


 2-3.恋愛ゲームの特異性(1)プレイヤー・制作者の愛の欺瞞

 複数ヒロイン制を採用している恋愛ゲームにおいて、どれだけ主人公がヒロインと永遠の愛を誓ったとしても、主人公は別のルートでは別のヒロインと愛を誓う。選択肢による分岐ひとつで、その愛は別のものへとガラリと変わってしまう。そのことに対して選択したプレイヤーに罪悪感は無く、ただただシナリオとキャラクターを消費するためにヒロインを切り捨てる。プレイヤーや制作者は登場人物には誠実であれと要求するが、自分達は選択肢で簡単にヒロインのルートを行き来する。こうして恋愛でパッケージングされた無数の物語が制作され消費されていくのだ。
 この欺瞞に関して、本作の制作者はどのようにして問題提起したか? それはヒロインの狂気とも取れるメタ思考によって提起した。本作のヒロインはプレイヤーに語りかけ、自らのおかれている状況を必死で説明し、懇願する。プレイヤーが他のヒロインのルートに行こうとするのを全力で阻止し、ルートに辿り着いた暁にはゲームを改変し、プレイヤーを無限ループという名の監禁状態にする。ヒロインの徹底的な行動とプレイヤーへの愛の語りかけは強烈だ。
 プレイヤー=主人公とするタイプの恋愛ゲームにおいて、我々プレイヤーと制作者はヒロインとの恋愛に、そしてその恋愛の選択に真剣に取り組もうとしているだろうか? 真剣だったかどうかと言われるとそこには肯定できない人ばかりだろう。作り物の恋愛に対して深く考えるような人などそうはいない。このヒロインが好きだからと操を立てて、他のヒロインには一切関わりをもたないというある意味誠実な人[*5]がどれだけいるだろうか? 恋愛ゲームにおいては必ずしもプレイヤー=主人公とする必要は無いし、プレイヤーが恋愛しなければならないわけではない。だとしても、たとえプレイヤー≠主人公の作品であっても、物語を真摯に読み、提示された選択肢(ヒロイン)を真剣に選んでいるプレイヤーがどれだけいるだろうか? そして、プレイヤーに真剣に読ませ選択肢(ヒロイン)を選ばせるだけの作品が、読ませ選ばせようとする制作者がどれだけいるだろうか?
 制作者によって作られる形骸化したヒロインとの恋愛とその選択は、プレイヤーの選択への責任を放棄させていく。それは次の問題提起にも繋がる。
 

 2-4.恋愛ゲームの特異性(2)一回性の欠如(選択の軽視)

 登場人物にとってどんな重大な選択も、プレイヤーにとってはそれほど重大ではない。登場人物が選択を思い悩み、苦渋の決断を強いられる状況にあっても、プレイヤーにとってそれはただ単に選択肢を選ぶだけの作業でしかない。いかなる時にもセーブ・ロード機能を使用可能な現代のノベルゲームシステムにおいて、選択肢とはただの分岐でしかないのだ。間違った選択肢を選んでバッドエンドになったとしても、セーブした地点をロードすることでもう一度その選択をやり直すことができる。そこに選択することの重みは存在しない。登場人物にとっては一回性の重大な選択、だがしかしプレイヤーにとって一回性は存在しない。つまり選択することそのものが軽視されているのだ。私自身、100作以上の恋愛ゲームをやってきたが、選択肢で悩むこと、決断することというのは殆ど無かったように思う[*6]。
 この選択の軽視を本作の制作者はどのようにして問題提起したか? それは本作のヒロインにゲームシステムを改編させ、システムからセーブ/ロード機能を削除させることで実現させた。このことにプレイヤーたる私は困惑した。まず第一に、いつでもセーブしてゲームを中断できるという利便性を失ったことに。第二に、選択肢の直前でのセーブ/ロードを行うことができず、選ぶことに対して慎重にならざるをえなくなったことに。このセーブ/ロード機能削除に対する違和感は大きなものだったし、その不便さは快適なノベルゲームシステムに慣れきった私にはとてもつらかった[*7][*8]。単純に選択肢に対してセーブ/ロードによる再帰不可としただけだが、この再帰不可選択肢演出[*9]が与えるプレイヤーへの影響は計り知れない。
 

前に、このセカイに留まってくれたのは、私を思ってくれたからじゃなくて——分岐上の結末を、見るためだったの?

 そう問い詰められた時、私ははじめて適当に選択肢を選んだことを後悔した。



■ 3.問題提起によって掘り起こされた"選択"の価値

 以上、恋愛ゲームに内在する特異性のうち2点に関して、本作での問題提起ならびにヒロインによるゲーム内での対抗策の実現について私の考えを述べた。では、ここまでして本作が作品内で成し遂げようとしたこととは何だろうか? それは、選択することの価値をあげることだろう。問題提起によって掘り起こされたテーマは"選択"そのものだ。
 作中最後に提示された二択は本作のテーマの終着点に他ならない。そこでは誰もが選択することに対して考えたはずだ。何も思い悩まず、ただ適当に選んだプレイヤーばかりだとしたら、この作品は失敗している。プレイヤーが作品を通して「選択」することを少しでも考えたのならばこの作品は成功している。
 主人公ひとりに対して複数のヒロインを選択できる『君と彼女と彼女の恋』が、プレイヤーが選択したたったひとりのヒロインとの恋愛になる『君と彼女の恋。』、恋愛ゲームは制作者が選択を意識することによってやっとプレイヤーとキャラクターが恋愛を始めるスタート地点に立てるのではないだろうか?




■ X."メタ 君と彼女と彼女の恋。" あるいは"選択"の可能性

 本作であげられているテーマ(問題提起)を人に伝えること、それ自体は私が今こうして文章にして自分の考えを述べているように可能である。それが作品として、恋愛ゲームとして、世に出ているということは何か?その意味はそれを受けとめるプレイヤーによって判断される。実際に恋愛ゲームというジャンルに効果を与えるかどうかは数年後までわからない。
 本作は物語というよりも評論色が強い作品であった。だが本作の形式は評論ではなく物語だ。物語で出したことの意味は確かにあっただろう。それはプレイヤーが身を以て体験するということ、作中のヒロインたちの問いかけや必死の懇願は多少なりとも効果があったはずだ。評論ではない物語の形式だからこそプレイヤーにより伝わったということは確かにあるだろう。
 メタ恋愛ゲーム作品を制作するにあたって、媒体をゲームに選んだのは最良だった。最近メタ設定が一部で流行っているライトノベル界隈ではこうした作品が出かねないところだった。本作には世界改編時のインターフェイスやパッケージに込められたギミック、クリア後の回想やムービー等ゲームであるからこそ成立したシナリオ演出が多数あり、いくつものアイディアが作品を一層面白くしている。そして、選択肢による演出に関しても再帰不可選択肢の他に、分岐上の選択とは関係のないプレイヤーへのインタラクティブ性を狙った演出上の選択肢「単独選択肢演出」等[*10]も盛り込まれ、選択肢が作品を大いに演出している。本作を通じてゲーム媒体の唯一性である「選択肢」は非常に使えるギミックなのではないかと再確信した。ゲーム媒体はもうやれることをやりつくしたわけではない。まだまだ新しくやれる可能性はあるのだ。

 恋愛ゲームは何もプレイヤー自身とキャラクターとの恋愛を描かなければならないわけではない。キャラクター同士の恋愛物語だって必要だ。しかし、主人公(=プレイヤー)とキャラクターの恋愛を描く場合、もしくはプレイヤーを作品に引きずり込ませ物語に没入させる場合に関しては、選択肢を介してプレイヤーを作品に取り込むことは極めて効果的だろう。本作がただ恋愛ゲームに内在する問題点を提起しただけのメタ作品であることに留まらず、ゲームにおける「選択」の有効活用に制作者達が恋愛ゲームを発展させていくことを私は期待している。











*1:昔、ノベルゲーム周辺の呼称について検討したものを合同誌の中の一原稿として発行してはいるので、WEB上にもそのうち載せるかもしれない(未定)。
*2:参考→「恋愛ゲーム」とはなんぞや?(then-d's theoria blog ver.)
  勝手に引用してすみません。。。
*3:本稿では男性向け恋愛ゲームの側面から問題を捉えていく。女性向け恋愛ゲームについては割愛。
*4:みんな大好きK○○○○問題にも通ずるところがあるような……
*5:ひとりのヒロインしか選べないというシステムでは『HoneyComing(HOOK)』のオンリーワンモードが思い浮かぶ。発売当時、後輩がヒロイン一人に操を立ててオンリーワンモードに臨んでいたことを覚えている。
  参考→HoneyComing(HOOK) 紹介ページ
*6:少ないとは言っても、選択肢が作品とプレイヤーの関係にうまく作用している作品もいろいろある。心に残る選択肢がある作品はたいていが良い作品。
*7:実際にはセーブ/ロード機能が使えないパートはそれほど長くなく、途中で中断しようとスキップ機能ですぐに追いつくことができるし、全ての選択肢が選べられなくなるわけではないのだが。むしろ選択肢を勝手に美雪が選んでくれる分、無限ループ中はいくらか作業が楽になった分はある。
*8:しかし、私には所詮ゲームのままだった。作中でセーブ・ロードができないのならハードディスクに保存されているセーブデータそのものをコピーしておけばいいというもの。最後の二択は確かに思い悩んだが、神の視点でいることに私は何も懲りていない。
*9:再帰不可選択肢演出>特に呼び名がなかったので勝手に命名。何か良い呼称を募集中。
*10:単独選択肢演出>解説は以下を参照
  参考→たったひとつしかない選択肢をあえて選ばせる「単独選択肢演出」(udkの雑記帳)
  一択選択肢とも呼ばれています。
  参考→演出論的覚書:Ⅳ章4節4款-α:選択肢(cactus_backyard)
*XX:最後に。"メタ 君と彼女と彼女の恋。"は大きなお世話である。私がこんなことを考えなくてもきっと世の中は良い方向に動いていくだろう。



閉じる↑

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2013.07.22(Mon) 21:17] ノベルゲーコラムTrackback(1) | Comments(1) 見る▼
↑TOPへ


COMMENT

承認待ちコメント by -

コメントを閉じる▲

可愛いの追求~立ち絵演出考察(3)E-moteによる新たな動的演出~ 

2012年12月12日 ()

 本記事ではE-moteによる新たな動的演出について検討していきます。
 そこそこ長いので目次を出しておきます。気になったところからどうぞ。
 それでははじめていきます。

  ◆ E-moteの概要
  ◆ E-moteに対するノベルゲームの演出要件
   (1) 立ち絵による新たな情報の追加
   (2) 立ち絵の動的演出による視点の支配、あるいはテキストと動的演出の相反性
   (3) 立ち絵の動的演出による時間支配
   (4) 立ち絵動的演出の全シーンへの適用
   (5) 動く立ち絵と動かない一枚絵
   (6) 回答1…ドラマティックモード
   (7) コスト要件
  ◆ E-moteの美少女ゲームへの作用
   (1) 可愛いの追求 -仕草という強力な“萌え”の獲得-
   (2) 絵の品質は落とさず動く
   (3) たゆんたゆんは良いエロゲー
  ◆ E-mote演出の可能性
   (1) E-mote論 総括
   (2) E-moteの可能性 -E-moteの部分使用-
   (3) 今後のE-moteへの期待






◆ E-moteの概要

 ノベルゲームではお馴染みの立ち絵ですが、通常立ち絵はその名の通りただ突っ立っているだけでそれ自体がアニメーションのように動くことはありません。よくある立ち絵の動的演出はせいぜい画面上の立ち絵を移動させたり、立ち絵の差分を切り替えたりするくらいです[*1]。しかし中にはキャラクターを3Dモデルで作成したりアニメーションを取り入れたりで立ち絵がきれいに動く作品もあります。そんな中で、今回はういんどみるが新作『ウィッチズガーデン』で大々的に取り入れた立ち絵がぬるぬる動くシステム「E-mote」について考えていきたいと思います[*2]。


 「E-mote」って何それ?って方はとりあえず、このムービーを見て下さい。E-moteがおおよそどんなシステムかわかることでしょう。



 
   ↑  ウィッチズガーデン E-moteプロモーションムービー「みんなのE-mote」



 立ち絵がアニメーションのように連続性をもって動いていることがわかるかと思います。その動きはさらにキャラクターの声に同期させて本当にしゃべっているかのように見せかけています。完全なアニメーションとまではいきませんが、それでも動きの情報は十分に伝わりますし、キャラクターの仕草に大きな違和感もありません。
 このように、E-moteでは従来のノベルゲームになかった類の動きの表現を演出しています。

 このE-mote、やっていることは立ち絵の差分と差分の切り替え時に生じる空白の補填です[※3]。立ち絵の差分が切り替わる時、その差分と差分の間には目に見えてわかる絵の違いがあります。その立ち絵から立ち絵の切り替わりにモーションを加え空白を埋めることで、あたかも動いているかのように見せかけています。何種類もある動きのパターンは大量の立ち絵差分の組み合わせによって成り立っています。
 立ち絵の差分を多く用意して場面場面に合わせた立ち絵を表示させること、それ自体は多くのノベルゲームで成されてきたことです。中でもういんどみるは1000をも超える組み合わせの立ち絵差分を用意したこともありました[※4]。大量の立ち絵差分を使った立ち絵芸を演出の柱としていたういんどみるですが、今回はその多分の立ち絵をつなぎ合わせた「E-mote」というシステムを取ってきました。これは従来の立ち絵演出からすると大きな変化です。テキスト+背景+立ち絵(もしくは一枚絵)というノベルゲームの画面を構成する大きな枠組は変わっていませんが、その中の立ち絵の扱いは大きく変わっています。従来、立ち絵の差分を切り替えるもしくは移動させてキャラクターの動きの表現(=動的演出)を行ってきたものが、立ち絵そのものを変化させることで動的演出を行うことに成功しています。
 このE-moteシステムによる立ち絵の動的演出でゲーム内にどのような変化があるでしょうか?


*1:参考:立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-692.html
*2:E-moteのように立ち絵が動くゲームはこれが初出ではありませんが、考察するには良い機会なので
  参考:Wikipeia モーションポートレート
*3:『ウィッチズガーデン』でE-mote機能をオフにすると立ち絵差分がカクカクして切り替わっているだけなのがわかるかと思います。キャラクターギャラリーのアクションモードはE-moteのオン/オフがとてもわかりやすいです。
*4:立ち絵のパターン数(差分)は最高いくつ? http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-472.html
  1枚のイベントCGに使われている差分は最高何枚? http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-471.html








◆ E-moteに対するノベルゲームの演出的要件

 ノベルゲームの演出として考えるとE-moteは今までになかった表現を持ち込むことが出来ます。それはキャラクターの仕草と表情の変化です。しかし、今まで動かなかったものを動かすとなると、従来までの読み方と異なる部分が発生したり、課題となる部分も出てきます。ここではE-moteによって可能になることと変化することをノベルゲームの演出的要件から考えていきます。


(1) 立ち絵による新たな情報の追加

 E-moteによって可能になるのは新しい形の「動き」の表現です。
 会話中のキャラクターの仕草や表情の表現がそれにあたります。E-moteではしゃべってる途中で目をそらしたり、頬を赤く染めたり、もじもじしたりと様々な動きを取ります。中でもキャラクターの目を動かして視線を表現する演出がとてもおもしろく、ただ目が動くだけでキャラクターがどこを見ているか、さらにはどんな気持ちなのかということまで表現できています。
 今までは会話の前後で切り替わる立ち絵(表情)の変化でしゃべってる間の動作(表情)が補完されていましたが[*5]、E-moteではしゃべってる間のキャラクターを動かすことでどのようにしゃべっているかを忠実に再現することが出来ています。
 ただし、E-moteは立ち絵差分の切り替わりの補填を行っているだけなので、E-moteによる動きの演出には多くの制限があります。アニメーション作品のようにどんな動きでも表現できることではありません。その動きの程度は絵素材をどのように用意してどのようにつなぎ合わせるかで決まるでしょう。それは制作者次第です。しかし、今までできなかった立ち絵の動的演出が可能となること、これによってノベルゲームとしての表現の幅が広がることは間違いないでしょう。


*5:テキスト進行中に立ち絵を切り替える演出もありますが、完全に動きがつながっているわけではないので別表現ということで。



(2) 立ち絵の動的演出による視点の支配、あるいはテキストと動的演出の相反性

 E-moteのように立ち絵の動的演出を常時行うとゲームの画面内の構造も変化します。
 ノベルゲームの画面構成は通常、絵とテキストで成り立っています(音についてはまたあとで)。プレイヤーは表示されている絵を見ることとテキストも読みことのふたつを行います。しかし、絵とテキストを同時に見るということはありません。ノベルゲームでは画面に表示されているテキストを読み終わりクリックすると次の画面に切り替わります。その時、テキスト以外に絵の方も切り替えると、プレイヤーはその絵を一瞬確認して、そのあとテキストを読み進めていきます。絵とテキストという別々の場所にあるものに対して画面切り替わる度にプレイヤーは無意識に自分の視点を切り替え、絵を見てテキストを読むという繰り返しをしていくわけです[※6]。


 男の娘の日はあるのでしょうか
   ↑  絵とテキストが同時に表示された時、どうやって読みますか?


 それに対してE-moteでは主人公以外のキャラクターがしゃべっている時、画面上の立ち絵がその動きの程度はあれ常時動き続けます。キャラクターがしゃべっていない地の文であっても時折立ち絵が動くことがあります。そうすることによって起こるのが立ち絵の動きを見続けてしまうためにテキストを読み進められないという現象です。
 プレイヤーは立ち絵が切り替わったのを確認してすぐにテキストを読み進めようとしますが、立ち絵が動いている間は動いている立ち絵を追い続けてしまいます。その間はテキストを読もうにもチラチラ動いている立ち絵の方に目がいってしまいです。人は何か動いているものがあるとどうしてもそちらの方を注視してしまうのでこれはどうしようもありません。通常のノベルゲームのように立ち絵の切り替わりを確認したら即座にテキストを読む工程に移るという流れが阻害されてしまいます。思い切って立ち絵の動的演出を無視してしまうのも手なので実際のところは二択になるのですが、その場合E-moteの動的演出の意味がなくなります。まあ慣れてきたらうまいことテキストを読みながら立ち絵を見るというのも不可能ではありませんが(実際ウィッチズガーデンの場合だとずっと注視しなければならないほど大きく動くことは少ないですし)
 このように立ち絵の動的演出はテキストを読む作業と相反性があります。


*6:クリックして画面が切り替わる際にテキストが表示される前に一瞬間を置いて、意図的に絵の変化を先に見せる手法をとっている作品もあります。



(3) 立ち絵の動的演出による時間支配

 E-moteによって変わるのは画面構造の変化だけではありません。ノベルゲームの時間支配の関係も変わります。
 (2)ではボイスのことを考慮していませんでしたが、ボイス有りの作品は多数あります[*7]。今回E-moteを取り入れた『ウィッチズガーデン』もフルボイスの作品です。フルボイスのゲームの場合、絵とテキストを交互に読んでいくことに加えてキャラクターの声を聞きながらテキストを読むという動作が加わります。絵を見てテキストを読みながらボイスを聞く、この一連の動作の際テキストを読む方がボイスより早いので、テキストを読み終わったらボイスが再生し終わるまで待たずクリックして次のテキストを読むプレイヤーも多いかと思います。
 それに対してE-moteの立ち絵動的演出はキャラクターのボイスと完全に同期されており、キャラクターが動いているのを見ていると同時にボイスを聞くことになります。そしてキャラクターの動きが終わるとボイスも全部聞いたことになり、テキストを読む必要がなくなります。
 つまり、通常のノベルゲームとE-moteでは、絵とテキストとボイスの時間関係が以下のように異なります[*8]。

E-moteの時間支配1


通常のノベルゲームだとプレイヤーが絵を見る時間、テキストを読む時間、ボイスを最後まで聞く/聞かないというのはプレイヤーの自由に出来ますが、E-moteの場合だと立ち絵の動作とボイスが同期されておりそれらの時間が支配的になります。ただしアニメーションやノベルゲームでも時折使われる完全オート進行とは異なり、E-moteは完全に支配的なわけではありません。プレイヤーが時間を支配する選択の余地は十分に残っています。クリックすると動的演出がカットされ、動的演出を全て見る/見ないの選択ができますし、また立ち絵とボイスが同期されているのはあくまでワンテキスト内に限定されています。あるテキストから次のテキストに移る間はプレイヤーが時間を支配します。
 このように時間を支配できるということは制作者の方では時間を演出に組み込めるのでその分演出の自由度はあがります。制作者が狙った通りに読ませることも可能です。しかし、プレイヤーの方にある程度の支配力を残しておかないと、プレイヤーの好きなスピードで読む自由を阻害することにもなります。この辺の関係性は難しいところです。


*7:ボイス以外の情報としてBGMもありますがこれを考慮するとさらに複雑になるので今回は対象外で。
*8:今回、ボイスを全て聞かずテキストを読み終わったらクリックして次のテキストを読むプレイスタイルを前提として話を進めていますがそこはご容赦を。



(4) 立ち絵動的演出の全シーンへの適用

 『ウィッチズガーデン』のように立ち絵の動的演出を全ての場合に適用すると時間的支配度が上がるということですが、それにより起こるのが単純なプレイ時間の増大です。ボイスを全て聞くとなると単純に総プレイ時間は何割も増してしまいます。またプレイ時間の割に話の展開を遅く感じたりも[*9][*10]。私も途中展開が進まなくてまどろっこしい部分はテキストを読むのを優先してところどころ立ち絵の動きを見るのをスキップしたりしました。
 時間的要素以外にも全シーン適用による効果はあります。それがテキストの価値の低下です。テキストよりも先に立ち絵を動かすということは、テキストよりも立ち絵の動きや声の情報が先に入ってしまいます。つまりテキストを読む必要が無い場面が増えます。それはテキストを“読む”よりも立ち絵を“見る”、ボイスを“聞く”場面が増えるということです。“読む”、“見る”、“聞く”の違いが実際プレイヤーにどのような影響を与えるかは一概に言いにくいですが、制作者はそれに合わせて作品を作り込んでいかなければならないでしょう。
 また、立ち絵の動的演出も先に述べた通りアニメーションのように完全ではないので、先に立ち絵が動いてしまうとテキストでしか表現できない微妙な動きの情報を表現するのは非常に難しくなります。表現の幅を広げているだけのように見えて、狭めている部分もあるわけです。


*9:そう感じたのはウィッチズガーデンの共通部の展開がゆっくりしていたからだけかもしれませんが……
*10:キャラクターのしゃべるスピードが遅かったりすると全部聞くのにストレスが溜まっていくという悲劇が起こるので制作する際にはそれだけは注意した方がいいかもしれません。



(5) 動く立ち絵と動かない一枚絵

 立ち絵が動くことによって際立つのが動かない一枚絵です。『ウィッチズガーデン』では、立ち絵はE-moteを用いて動かしていましたが一枚絵には適用されていませんでした。立ち絵があれだけ動くので、動かない一枚絵を見るとしょんぼりしてしまいます。一枚絵も短い時間だけ表示されていたり、差分による切り替わりが多い分には問題無いのですが、あまり動きがない状態が続くと残念に感じます。また、立ち絵が表示されている際の背景も動きません。しかし、背景まで忙しく動き回られるとどこを見ればいいのかさらにわからなくなるので、動かすにしても少しだけで良いでしょう。
 背景や一枚絵にまでE-moteを適用するのはコスト的に厳しいのかもしれないので、その辺は保留でしょうか。ただ立ち絵と一枚絵の落差だけはなんとかしたいところです。



(6) 回答1…ドラマティックモード

 立ち絵の動的演出を最後まで見ていたらテキストを読む必要がなくなったという事象に対して、制作者が推奨しているのがドラマティックモードの適用です[*9]。ドラマティックモードというのは、オートモード再生時キャラクターのボイスが再生されている状況ではテキストウインドウが消えるモードです。ボイス再生時はテキストを読まずただ絵を見て声を聞くのみとなります。
 今までシステム内に実装されているゲームはいくつかありましたが、非常に使う意義が薄かった機能です。しかしE-moteによってその価値が少し上がったのではないでしょうか。


 実を言うとオートモードは使ったんですけど結局ドラマティックモードは使いませんでした。
  *11:『ウィッチズガーデン』コンフィグ画面 ドラマティックモード ↑


(7) コスト要件

 E-moteを導入するにあたってはコストの問題が一番に響いてくるでしょう。
  ・システム導入のためのコスト(プログラム)
  ・演出指示の増加(スクリプトの増加)
  ・立ち絵差分の増加
 ざっと思いついたものを並べてみました。それぞれに必要なコストがどの程度のものであるかは実際に私が制作しているわけではないのでわかりませんが少なくはないでしょう。






◆ E-moteの美少女ゲームへの作用

 何故ういんどみるがE-moteを取り入れたのか、それはういんどみるが美少女ゲームメーカーであることに強く起因していると考えられます。E-moteを美少女ゲーム[*12]に導入することによる作用を述べていきましょう。


*12:美少女ゲームといっても十把一絡げでその中にはエロさを追求したものからシナリオを重視したものまで様々なものがありますが、今回はキャラクターの可愛さを重視している作品への作用を検討していきます。いわゆる萌ゲーと呼ばれている作品ですかね。



 
 ↑ ウィッチズガーデン E-moteプロモーションムービー「みんなのE-mote」E-moteの長所を端的に紹介


(1) 可愛いの追求 -仕草という強力な”萌え”の獲得-

 美少女ゲームはお話のおもしろさも大事ですが、キャラクターの可愛さというのも大事なことのひとつです。特に今回E-moteを取り入れたういんどみるのようなブランドだとキャラクターの可愛さというものを第一に考えているように思います。そのようなブランドにとって如何にして可愛い女の娘を描くかというのは、ある種永遠の課題です。それに苦心している制作者も少なくないでしょう。
 その点、E-moteはキャラクターを少しでも可愛く見せるために有効なシステムであるといえます。E-moteでは立ち絵を動かすことによりキャラクターの仕草と表情の変化を表現できます。
 キャラクターの可愛さを演出する手法としてキャラクターの仕草や表情というものはとても効果的です。ただ頬を染めるだけよりも、もじもじしながら頬を染めた方が可愛い。ただ赤くなるよりもうつむきながら赤くなる方が可愛い。目が動いて上目遣いになるところも可愛い。「うん」と頷く仕草とか「違う」と首を振る仕草とか可愛いです。目があっちいったりこっちいったりする動作が可愛いです。つまり……

 E-moteで動く女の娘が可愛いんです!
 普通の立ち絵演出よりも可愛いんですよ!!
 表情豊かにちょこまか動くあやりが可愛いんですよ!!!
 あやりの自己紹介シーンとかとても可愛いんですよ!!!!



 あやりの自己紹介10回以上見てしまいました
  ↑ あやりの自己紹介シーン その動きを一目見て惚れました


 ……ちょっと熱くなってしまいました。
 このようにE-moteによって可能になるキャラクターの仕草と表情の変化がキャラクターの可愛さを演出する手法として一役も二役も買っています。可能なことなら私のE-moteベスト動的演出シーンを切り取ったセーブファイルをお見せしたいところですがブログではそれは少々難しいので、皆さんも製品版(もしくは体験版)をやってみて下さい。E-moteを体感してみるといいと思います。



(2) 絵の品質は落とさず動く

 美少女ゲームでは静止画の状況でいかに可愛く女の娘の絵を描くかということにを追求してきました。それは絵の質が売上に左右するほどに……。
 E-moteはアニメーションのように動かす前提で絵を描いているわけではないので、一枚一枚を切り取った時、どの絵もとても丁寧です。E-moteでは動きを取り入れましが、動いているにもかかわらず絵の質は落ちていないし動きによる違和感もないというのはとても大事なことです。ここもちょっと評価したいポイントです。



(3) たゆんたゆんは良いエロゲー

 『ウィッチズガーデン』のE-mote最大の目玉、それがたゆんたゆんシステム(勝手に命名)です。そう、胸がたゆんたゆんに揺れるんですよ[*13]。女の娘が動くと胸が揺れるという人類の夢[*14]を実現しています!
 『ウィッチズガーデン』ではキャラクターの胸揺れ度を設定することができます。まあ紳士の皆様方は当然MAXのたゆんたゆんにしますよね。私もプレイ時は終始MAXのたゆんたゆんに設定していました。

 ウィッチズガーデン_おっぱいたゆんたゆんシステム
  ↑ たゆんたゆん以外の選択肢は認めない


 『ウィッチズガーデン』をはじめた時、私は胸に釘付けでした。テキストよりもキャラクターの動きよりも、何よりもおっぱいの動きに注目してしまいました。ノベルゲームの演出要件で話したテキストと動的演出の相反性には、動的演出の中におっぱいとそれ以外の相反性も含まれています。いったいどこを見ればいいのか、まあ動いているものがあるとどうしてもそれを見てしまうので仕方ないことです。途中から我慢してなるべく胸部を見ないようにしていました。
 私はこれまでキャラクターの胸の大きさをさほど気にしていませんでしたが、このたゆんたゆんに揺れるおっぱいを見ると、胸の大きさも大事だということがわかりました。大きいおっぱいもいいですね![*15]


 どこをみればわからないけどあやり可愛いでいいや
  ↑ テキストを見ればいいのか、顔を見ればいいのか、胸を見ればいいのか


*13:まあ髪も揺れるんですけど胸と比べるとどうでもいいので
*14:SORAHANE『さくら、咲きました。』より人類の夢 -Dream of Human-
  http://www.sorahane.org/sakusaki/doh.html
  このE-moteもきっと人類の夢のひとつ -Dream of Human たゆんたゆん Edition- でしょう。
*15:ですが、18禁シーンで動かない胸に萎えました。今回のE-moteで一番がっかりしたのはそこです。エロゲーで萎えさせてしまうのはよくないですね。







◆ E-mote演出の可能性

 最後に今回の記事の総括と今後のE-moteの可能性について考えていきます。


(1)E-mote論 総括

 今回、E-moteのノベルゲームに対する演出的要件と美少女ゲームへの作用について検討してきました。E-moteによる立ち絵の動的演出は美少女ゲームにおいて仕草と表情という強力な“萌え”を獲得します。これは美少女ゲームにおいて大きな利点であり、キャラクターの可愛さを追求する上では有益なものでしょう。たゆんたゆんに揺れる胸はとてもわかりやすいアピールポイントです。
 E-moteは利点だけでなくプレイヤーがゲームをする上での変化ももたらします。画面構造や時間支配の変化がそれです。プレイヤーに対する絵とテキストとボイスと時間の関係性については、E-moteの関係性が最適であるとは限りません。演出文法の種々の変化の中でどのような演出を組むか、制作における演出家の役割が増えることでしょう。
 しかし、明らかなデメリットもあり、コストの増大という制作する上で致命的なものも孕んでいます。限られた予算と開発期間に対して導入に踏み切るか否かは制作者次第です。



(2) E-moteの可能性 -E-moteの部分使用-

 仮に予算的都合でE-moteの採用が難しい場合、E-moteを場面全体に適用するのではなくいくつかのシーンに限定して使用するという方法が採れるのではないでしょうか。そうすればもっとE-moteを活用しやすくなるでしょう。
 今回『ウィッチズガーデン』をやっていて感じたのが常時動かす必要は必ずしもないのではないかということです。動いているがその動きが意味の薄いシーンが多々ありまして、そうしたシーンまで動かす必要があるのかと疑問に感じました。立ち絵の動きを全部見ようとするとボイスを全部聞くのと同義になり時間的支配やプレイ時間が増大します。そのため、私も途中展開が進まなくてまどろっこしい所はテキストを読んでところどころ立ち絵の動きを見るのをスキップしたりしました。
 いや、いくつかのシーンはE-moteが本当にぴったりきまっていてとても良かったのですが、それならそういうシーンのみ限定的に動かすのもアリなのではないかと。必要に応じて最大限の効果を発揮するポイントで使用できれば十分効果的なのではないかということです。そのE-moteを活用するのはストーリーの山場やキャラクターの可愛さを演出するシーンなど、萌ゲーに限らず、シナリオ重視の作品にも活用できるのではないでしょうか。
 ただし、いくつかのシーンに限定的に使用する場合、いきなり動かすわけですからその辺の配慮は必要になるかと思います。常時動かすメリットは立ち絵が動くのがわかっていることであり、それが前提で演出を組めることにあるのですから。



(3)今後のE-moteへの期待

 予算的都合がつく場合、『ウィッチズガーデン』のようにE-moteを場面全体に適用することも可能です。そうした場合、総括でも述べたように、演出文法の違いにどうやって対処するか、既存の文法にどうやって溶け込ませるかは課題となるでしょう。
 そしてE-moteで立ち絵の動的演出を行うという試みもまだまだ始まったばかりです。E-moteを用いてどのように動かすことができるのか、どのように動かすのがそのシーンに最適かとうのはまだまだ検討の余地があるかと思います。


 既存の立ち絵演出に付け加える形でE-moteがどのように発展していくか、とても楽しみです。現状ではE-moteは可愛さの追求の面が強いですが、これが物語を演出するための表現の追求として機能していくのに期待しています。



 
ウィッチズガーデン 初回限定版ウィッチズガーデン 初回限定版
(2012/11/30)
Windows

商品詳細を見る









 参考
 ●ういんどみる ホームページ
 ●ウィッチズガーデン ホームページ
 ●立ち絵が座る瞬間 ~立ち絵演出考察(1)立ち絵配置による舞台形成~
 ●立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2012.12.12(Wed) 22:17] ノベルゲーコラムTrackback(0) | Comments(0) 見る▼
↑TOPへ


2012年7月19日 世界が終わる前日 

2012年07月19日 ()

 お久しぶりです。最近どうも別の自分が私に変わって過ごしていたようで記憶があやふやなのですが、ノベルゲーム大好きな私は久々の登場です。
 『恋愛ゲームシナリオライター30人×30説+』に投稿した「すかぢ論」を公開しました。


 『恋愛ゲームシナリオライター30人×30説+』 すかぢ論 ~11年にわたる「生の意義」の探求~


 いろいろ思い入れのある論考です。今読み返してこれで良かったのかという思いに苛まれるところもありますが、どうなんでしょうね。
 読んだことがある方も多いでしょうが、まだ読んでない人はぜひどうぞ。



 ……



 我らが救世主の間宮様によると、世界は明日には滅びるそうなので、今ここで公開しても誰も読むことはなく終わることでしょう。これを読むのは空に還って新しい世界に至った人だけでしょうね。


 ……


 もうすぐビッグハザードが来るということで、最近は『素晴らしき日々』を再度読み返したりしていました。読み返すとまたいろいろ考えるところがあって読みながら書き留めていっていたのですが、残念ながらもう時間が来たようです。この終ノ空-素晴らしき日々論もお蔵入りですかね。何度読んでも行きつくところは同じだったなぁ。




 それでは終ノ空を見てきます。
 私の住んでるところはマンションの5階で下はちょっとした崖になっているので、うまくアタマリバースすれば空に還れるかもしれません。さすれば私も間宮様のようになれるかも!








 さて、私にはどんな空が見えるでしょうか? 最後の空を堪能してきます。























 由岐姉の幽霊に「幸福に生きよ!」って言われたような気がしたので、ベランダから戻ってきました。

 スパイラルマタイはまたの機会に。


























 でも……もし違う世界が見れるのなら、その先に行ってみるのもいいのかもなぁ……








[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2012.07.19(Thu) 00:47] 素晴らしき日々Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
↑TOPへ


TOP | NEXT

カレンダー

プロフィール

カテゴリー

twitter

人気エントリー

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

リンク

記事一覧

ブログ内検索

メッセージフォーム

応援中

今後発売の期待作

オススメ作品

RSS

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。