恋愛ゲームシナリオライター30人×30説+ すかぢ論 ~11年にわたる「生の意義」の探求~
2012年07月19日 (木)
恋愛ゲームシナリオライター30人×30説+
すかぢ論 ~11年にわたる「生の意義」の探求~
論者:udk
すかぢ論 ~11年にわたる「生の意義」の探求~
論者:udk
初出『恋愛ゲームシナリオライタ論集30人×30説+』
『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』掲載原稿リンク集
『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』掲載原稿リンク集
0. 序文
他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない。Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『青色本』
これはすかぢ氏に多大な影響を与えた哲学者の著作の命題のひとつである。人が他人を本質的に理解する事は出来ず、それゆえに他人の全てを語る事はできないということを明示している。
語りえぬことには、沈黙せねばならない。Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『論理哲学論考』
『終ノ空』第一章
私はすかぢ氏と直接の面識を持っていない。直接会った事も話した事もない。ゆえに、私が明晰に語り得るのは氏が世に発表した作品とそれについて氏が記した書物だけである。それ以外については沈黙せざるを得ない。であるからして、本稿では氏について作品から語り得ることだけを記す。
1. 緒言
この作品を…
全ての呪われた生と…
祝福された生に…
捧げる…。『終ノ空』最終章
本稿「すかぢ論」のメインテーマ「生の意義」について述べる。人の「生の意義」には二通りの解釈ができる。ひとつが「祝福された生」、もうひとつが「呪われた生」である。「祝福された生」とは、人の世には幸なものも不幸なものもすべて祝福されて存在しているということである。対して「呪われた生」とは、あらゆるものが祝福されて存在しているにも関わらず、「生」は消滅から逃れられない、いわゆる「生とは死に至る病である(*1)」という解釈である。つまり、生とは祝福されていると同時に呪われてもいるのである。この哲学的とも言える「呪われた生/祝福された生」の思想に対し、作品内で自身の「生の意義」を提示したのがすかぢ氏である。
「生」とは何だろうか? それに対して「死」とは?
この2つはどんな意義を持つのだろうか?
神とは? 世界とは? 自己とは?
すかぢ氏の作品にはこのような人の根源的な命題をテーマにするものが多く、それが一番の特徴である。氏の作品には独特の主張が見られ、それは他の作家に類を見ないものである。本稿では、そのようなテーマの作品を制作するすかぢ氏はいったいどのような人物であるのか、これまでに氏が世に送り出してきた作品からクリエイターとしての氏を評し、また作品のテーマについて考察する。
本稿「すかぢ論」は以下のように論を進めていく。
0. 序文
1. 緒言
2. すかぢ氏の作家性について ~多才なクリエイター「すかぢ」~
3. 作品から見るすかぢ氏の変遷
3.1. 『終ノ空』 ~すかぢ氏のはじまりにして祖~
3.2. 『二重影』 ~「終」に続くは「対」~
3.3. 『モエかん』 ~萌えと泣き、一般化を目指した結果は…~
3.4. 『H2O(*2)』 ~メインライターからサブライターへ~
3.5. 『しゅぷれ~むキャンディ(*2)』/『テレビの消えた日』 ~プロデューサーとしてのすかぢ氏~
3.6. 『素晴らしき日々(*2)』 ~すかぢ氏の集大成~
4. 11年にわたる「生の意義」の探求
4.1. 呪われた生/祝福された生とは
4.2. 『終ノ空』における「生」~立ち止まる者と立ち止まらない者~
4.3. 『二重影』における「生」~祈りの強さ~
4.4. 『モエかん』における「生」~世界の美しさ~
4.5. 『H2O』における「生」 ~前へ進む強さ~
4.6. 『素晴らしき日々』における「生」~言葉と旋律~
4.7. 探求の果てに ~すかぢ氏が辿り着いた結論~
5. 結言
まず、本章にて本稿の概要を述べた後、2章にてすかぢ氏の作家性についてその才能と特徴を述べる。その後、3章にて氏がこれまで制作してきた作品の解説を行う。4章では、本稿の主題である氏の作品のテーマについて言及する。冒頭で述べた氏の作品全てに通ずるテーマ「生の意義」の思想を中心に、各作品のテーマを考察していく。最後に結言をもって本稿の終了とする。
(*1) キルケゴール著『死に至る病』
(*2) 本稿では一部タイトルの副題を省略表記する。
『H2O -FOOTPRINTS IN THE SAND-』=『H2O』
『しゅぷれ~むキャンディ ~王道には王道たる理由があるんです!~』=『しゅぷれ~むキャンディ』
『素晴らしき日々 ~不連続存在~』=『素晴らしき日々』
2. すかぢ氏の作家性について
~多才なクリエイター「すかぢ」~
すかぢ氏の各作品について語る前に、まず氏がどのような人物であるか述べていく。すかぢ氏は美少女ゲームの分野で活躍しているノベルゲームの“クリエイター”である。ここでは“シナリオライター”ではなくあえて“クリエイター”と記述した。それは氏がシナリオ単体だけでなく、原画、彩色、演出、監督などゲーム制作の多くの部分に携わっていることによる。シナリオ以外に監督も務めるシナリオライターというのはたまに見かけるが、それに加えて絵も描けるというのはこのすかぢ氏以外にそうはいない(*3)。言うなればマルチクリエイターである。さらにすかぢ氏は、自身の作品をリリースしているケロQ・枕ブランド(株式会社ムーンフェイズ)の代表(*4)も務めている。上記の役職に加え、会社の代表までをも務めている人物は業界広しと言ってもすかぢ氏くらいだろう。
実際、ゲーム制作の中ですかぢ氏がどれほどのことをしているか、これまでにケロQ・枕ブランドでリリースされた作品と氏が務めた役職を表1にまとめた。
表1より、すかぢ氏がノベルゲームを構成する要素のうちの多くを占めていることがわかる。ただし、シナリオに関してはメインライターを務めていない作品もあり(*8)、原画等のグラフィックも複数人で制作が行われている。それでもほぼ全ての作品の企画・シナリオ・監督を務めているというのはただごとではない。氏の負担はかなり大きいだろう。そのことについて作中で言及されたのが以下のシーンである。
自分で出来るからと言って、全て自分でやってしまう人間はろくな人になりませんよ……
自分で出来る事でもあえて他の人にやらせて様子を見る……これが人としての器ではないでしょうか?
私の知っている方で、シナリオと原画とCGと演出素材から背景まで、自分で出来るからと言う理由で全部やろうとしてしまう方がいますが……
正直人間としてどうしようもないですっ『素晴らしき日々』 第一章 「Dawn the Rabbit-Hole」
この文章はサブライターの藤倉絢一氏が執筆したものと思われるが(*9)、なかなかのすかぢ氏への皮肉っぷりである。上述のようにすかぢ氏はゲーム制作において様々な仕事を自分でやってしまうことができる。だが、氏がそうすることによってディレクションが疎かになり、進行が遅れてしまうという事実も確かである。それはゲーム制作にかかる作業量が増えた近年の作品の延期状況、制作期間の長大化に現れている(*10)。このようにたいていのことはやってのけるすかぢ氏であるが、いつかエンドクレジットがすかぢオンリーのゲームも見てみたいところである(*11)。
これまでにケロQ・枕でリリースされたほぼ全作品の監督(プロデュース)を務めているすかぢ氏。氏について記すということはすなわち、氏が代表を務める株式会社ムーンフェイズのケロQ・枕ブランドについて語ることと同義であると言えよう。したがって、本稿では氏がメインライターを務めていない作品についても氏の作品として取り扱う。
(*3) 都築真紀氏もこの条件に該当する。
(*4) ケロQブランド発足時(1998年)はすかぢ氏ではなくにのみー隊長氏が有限会社ケロQの代表を務めていたが、『終ノ空』発売後~『二重影』の発売前の間に自身が代表となり、その後株式会社ムーンフェイズを設立した。
(*5) 商業18禁PC美少女ゲームに限る。コンシューマ機器への移植作品、コミックマーケット・ドリームパーティー等でのグッズ販売品、原案・監修を務めた小説・漫画等の作品は除く。2009年に発売された『H2O √after and another Complete Story Edition』については『H2O』『√after and another』に比べて新規要素がほぼ無いのでここでは省略する。
(*6) 表1は各作品のエンドクレジット等による。詳しくは「ケロQ・枕エンドクレジットに見るすかぢ率の高さ-udkの雑記帳- (http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-636.html)」を参照。
(*7) 『テレビの消えた日』についてはエンドクレジットには監督(プロデュース)の項目が記載されていないが、書籍等よりすかぢ氏を中心に制作していたことが見て取れるので、すかぢ氏を監督(プロデュース)とする。
(*8) すかぢ氏がこの11年で原案・メインシナリオ。監督を務めたものは『終ノ空』『二重影』『モエかん』『素晴らしき日々』の4作(ファンディスクの『二重箱』『モエカす』を含めると6作)。原案を務めずサブライター・監督として参加したのが『H2O』『√after and another』『しゅぷれ~むキャンディ』の3作。監督としてのみ参加したのが『テレビの消えた日』である。
(*9)『素晴らしき日々 ~不連続存在~ 特装初回版』(ケロQ,2010年)付属『素晴らしき日々 ~不連続存在~ オフィシャルアートワークス』p.62「すかぢロングインタビュー」より。「Down the Rabbit-Hole」の一巡目、幻想世界のシナリオが藤倉絢一氏と記載。しかし、すかぢ氏が書き直した部分も多いとの記述もあるので、藤倉氏と断定はできない。
(*10) 『サクラノ詩』は2003年に制作が発表されたが、未だに発売されていない。
(*11) どれだけ制作に時間がかかるかはわからないが。
3. 作品から見るすかぢ氏の変遷
本章では、すかぢ氏がケロQ・枕ブランドで制作してきた作品について解説していく。
3.1. 『終ノ空』 ~すかぢ氏のはじまりにして祖~
ケロQ処女作、すかぢ氏が初めて制作したノベルゲームがこの『終ノ空』である。ノウハウがほとんどない素人集団(*12)が制作したためにかなり荒削りでシステム等も悪いが、この『終ノ空』はすかぢ作品の中で最も氏の思想が色濃く出ている。特に、氏が最も影響を受けた哲学者「ウィトゲンシュタイン」の思想がよく現れている。
『終ノ空』は1人の少女の飛び降り自殺から始まる狂気の物語を4人の視点で語っていく群像劇である。異色の作風の物語だったことでブランド処女作ながらも多くの注目を集めた。この作品で興味深いのは2点。ひとつはすかぢ氏自身の思想である。『終ノ空』では氏が当時考えていた多くの思想が断片的に語られている。冒頭でも述べた「生」の思想。他には終末思想、高次の存在、世界論、認識論、自己の定義、不連続存在など様々な思想が語られており、作品内から氏の考え方を読み取れるようになっている。
もうひとつ興味深いのが読み手によって作品の受け取り方が大きく変わるという点である。万人がいれば万人とも違う感想を抱くのではないだろうか。それはまるで作中で見る終ノ空が人によって異なるものであったように…。本作では多くの思想が提示されているのだが、最終的には全て「語りえぬことには、沈黙せねばならない」に集約される。そのため読み手に考えを委ねる部分が大きく、人によってその受け取り方が変わってくる(*13)。
すかぢ氏の原点たる『終ノ空』、以降氏は『素晴らしき日々』を書き終えるまでずっとこの『終ノ空』(作品に内在するテーマ)に囚われ続けることになる。
3.2. 『二重影』 ~「終」に続くは「対」~
「終」に続くは「対」。「終」の『終ノ空』に対して、すかぢ氏第二作は「対」の『二重影』である。世界の終末が描かれた『終ノ空』に対して、この『二重影』ではあらゆるものが対になっている島を舞台に時代活劇が描かれた。氏は作品内に「対」となるものを持ち込んで、その対比からテーマを語ることが多い。『終ノ空』では対立する2人の人物と思想が描かれていたが、『二重影』でもまた同様に、2人の人物(2つの影を有する剣士「二つ影双厳」と影のない「無影」)が描かれている。テーマについても『終ノ空』と同じく、『二重影』でも2人の対比を用いて「生」が語られている。『終ノ空』は氏が好き勝手に自分の思想をぶち込んだ、言わば氏そのものの作品であったが、『二重影』は自身の思想から幾ばくか距離をおき、読みやすく、親しみやすい作品を目指したようである(*14)。事実そのようにエンターテイメント性の高い作品となったが、氏そのものだった『終ノ空』と比べるとその訴求力は落ちる。
『終ノ空』制作時と比べると、資金・人員的に余裕ができ、自由度が大きくなったのもまた確かで、シナリオ量・原画枚数ともに大きく増え、システムも改善された(*15)。作品の完成度自体もこの『二重影』の方が高いだろう。
『二重影』発売の1年後、番外編等を収録したファンディスク『二重箱』が発売された。
3.3. 『モエかん』 ~萌えと泣き、一般受けを目指した結果は…~
『終ノ空』『二重影』と美少女ゲームでは異色な作品を制作してきたすかぢ氏。コアなファンを獲得してきた氏が3作目にしてより多くの人に親しんでもらえるように制作したのがこの『モエかん』である。『モエかん』は当時の主流であった「萌え」「泣き」を目指して作った作品で(*16)、萌えっ娘カンパニー・メイド育成所の所長を務める「神崎貴弘」とそこで働く少女達の交流を描いた物語となっている。萌えゲーや泣きゲーの制作経験がなく、それらからほど遠いものを制作していたスタッフによって作られただけあって、主流の萌えゲーからずれた不思議な作品ができあがってしまった。しかし、氏はこの作品の制作から「萌え」「泣き」というのものを少しずつ掴んでいく(*17)。
ところが制作は難航を極めた。シナリオの増大に伴う複数ライターでの執筆、きついスケジュールで制作した結果、1つのルートが未完成で終わってしまった。その未完成ルートの救済としてファンディスク内で作り直したのが『モエカす』内に収録されている「Route of Kirisima」である。この『モエカす』で一応の物語のオチはついたものの、ここでもまだ完全に物語を終わらせることができなかった。この制作の不十分さはこれからも続いていく。
3.4. 『H2O』 ~メインライターからサブライターへ~
『モエかん』発売後に発表された新ブランド枕の立ち上げ及び新ライターによる『サクラノ詩』の制作発表。その『サクラノ詩』は依然制作が難航しており、未だ発売されていない。それに変わって枕ブランドで発売されたのがこの『H2O』である。『H2O』では、田舎の村を舞台に目が見えない少年と少女達との交流が描かれた。この作品では藤倉絢一氏が原案・メインシナリオライターを担当しており、すかぢ氏はそれの補佐にまわっている。はじめてサブのシナリオライターとして制作に関わったすかぢ氏。他者の物語にライターとして参加するということで物語の作り方などそこから得られたものも多かったと言う(*18)。また、この頃には氏のブランドのグラフィック・演出表現はだいぶまとまっている。
『H2O』発売の1年後、『√after and another』が発売され、『H2O』では不十分だった部分を見事補完することに成功している。この不完全な部分を補完する、または作り直すという流れは、『二重影』に対する『陰と影 ~那月島鬼談~』(*19)、『終ノ空』に対する『素晴らしき日々』の制作に続いていく。
3.5. 『しゅぷれ~むキャンディ』/『テレビの消えた日』 ~プロデューサーとしてのすかぢ氏~
会社代表として、自身がシナリオライターとしていなくてもゲームが作れる状況を目指していたというすかぢ氏(*20)。この目標もこの時期スタッフの育成が実り、ようやく軌道に乗ってくる。シナリオライターとしてかなりの腕を持つ氏であるが、ライターの育成という点では難しかったようで、10年でものになったのは藤倉絢一氏とあと加えるとすれば柚子璃刃氏くらいだろう。反面、グラフィッカーの育成はうまくいっており、ケロQ・枕ブランドから多くの原画家が生まれている(*21)。
そしてプロデューサーにまわった『しゅぷれ~むキャンディ』と『テレビの消えた日』ではその責務を全うし、無事発売されている。
3.6. 『素晴らしき日々』 ~すかぢ氏の集大成~
『モエかん』以降長らくメインライターとして作品に関わっていなかったすかぢ氏。久々の新作は『素晴らしき日々』という『終ノ空』を彷彿させる作品であった。この『素晴らしき日々』は『終ノ空』の設定に、「非連続存在(*22)」という氏が10年来(*23)温めていた企画を合わせたものになっている。
すかぢ氏の原点である『終ノ空』の焼き直し、これには氏も全力で制作にあたったようで、ほぼ全てのシナリオを1人で執筆している。根幹にあるのは『終ノ空』の思想であり、全作品で問い続けた「生の意義」であるが、『素晴らしき日々』はさらにその先を行っており、『終ノ空』以来ずっと囚われ続けた呪縛をついに解くこととなった。氏の10年の集大成にふさわしい作品となっている。その完成度は驚くほど高い。ケロQ作品はその完成度が毎回悔やまれるものが多いが、この『素晴らしき日々』だけは完全に一個の完成された作品であると言えよう。
(*12) ケロQ設立以前、にのみー隊長氏を中心に「ケロッピーディスク」というサークルで同人活動を行っており、このとき既に簡単なゲームの制作経験はある。
(*13) もっともそれは作品が言葉足らずでわかりにくいというのも否めないが…。『終ノ空』は全編通して「語りえぬことには、沈黙せねばならない」を示した作品である。
(*14) 『終ノ空 CG&原画集』(ケイエスエス,1999年)p.96「終ノ空制作スタッフ特別インタビュー」より
(*15) 他のブランド並みのシステムになるのは『H2O』以降である。
(*16) 『モエかん MOEKKO COMPANY 公式ビジュアルファンブック』(ソフトバンクパブリッシング,2003年)p.120「ロングインタビュー ケロQ社史~モエかんへの道~」より。
(*17) 次作『H2O』ではこの経験を活かし、「萌え」方向に関してもよくできている。
(*18) 『H2O ~FOOTPRINTS IN THE SAND~&√after and another パーフェクトビジュアルブック』(アスキーメディアワークス,2008年)p.145「スタッフインタビュー」より。
(*19) 2005年に『二重影』のリメイク・続編として発表されたが、『素晴らしき日々』の制作に加えて『サクラノ詩』の延期が今もなお続いている状態であるため、2009年開発無期限停止状態となった。
(*20) 『素晴らしき日々 ~不連続存在~ 特装初回版』(ケロQ,2010年)付属『素晴らしき日々 ~不連続存在~ オフィシャルアートワークス』p.71「すかぢロングインタビュー」より。
(*21) 2C=がろあ、硯、月音、籠目、日比野翔,いぬがみきら、梱枝りこ、深森、karory(敬称略)を始めとして多くの原画家が生まれている。
(*22) 「不連続存在」とは存在の連続性(1分前の自分と今の自分が同じであるのか)というテーマを元に、1つの肉体に複数の人格が混在し、その人格が不連続に入れ替わること。
(*23) 『scenario-entertainment AriA【アリア】 VOL.1』(FOX出版,2001年)p.36「脅威のロングインタビュー ケロQ SCA-自」より。『終ノ空』企画時から考えていたとある。
4. 11年にわたる「生の意義」の探求
本章ではすかぢ氏の各作品におけるテーマ「生の意義」について考察していき、最後に氏の探求の成果について述べる。
4.1. 呪われた生/祝福された生とは
これまでに終末、時代劇、萌えゲー、不連続性など様々なジャンルの作品を出してきたすかぢ氏。氏が原案・シナリオを務めた作品(*24)にはどの作品でも語られている共通のテーマがある。それは「生」とは何か?何のために「生」は存在しているのかということである。この「生への意義」を語るにあたって、氏は「呪われた生/祝福された生」という言葉をもって作中で「生」の疑問を提示している。
生とは死に至る病だ。
生まれるとは、相対的な死を約束される事だ。
生まれてこなければ死は来ない。
無と死は違う。
生があるから、
死はある。
生がなければ死は存在しない。
生とは…死に至る病そのものだ。
だから生まれた子供は、生まれた事を呪っている。
だけど生は祝福もされている。
生きようとする意志。
生を動かすのは、生への祝福と呪われた生。『終ノ空』最終章
世界には善と悪があり、幸と不幸がある。しかし、そういうものとは関係なく、世界は在る。神にとっての祝福とは、人間が言う善悪をこえ、存在する全てに等しく与えられる。すなわち、生とは祝福されている=「祝福された生」である。しかしすべての生は、存在しているのに関わらず消滅から逃れられない。「生」とは無価値である。すなわち、生とは呪われている=「呪われた生」でもある(*25)。
これは、「赤子の誕生」という例を用いて『終ノ空』『素晴らしき日々』では以下のように語られている。
神様なんて世界にいない
それどころか、この世界に生まれるのは呪いに似たものだって……
だってさ、死んじゃうんだからさ
どんな幸せも終わる
どんな楽しい時間も終わる
どんなに人を愛しても……どんなに世界を愛しても……
それは終わる
死という名の終止符を打たれて……
だから、この世界に生まれ落ちるって事は呪いに似たものだと思ってた……
だって、幸福は終わりを告げてしまうのだから……
それが原因なのかさ……何度か同じ様な夢見てたんだよ……
そう、夢……赤ちゃんの夢
うん、怖いね……私が泣き出すぐらいに……恐い夢……
生まれたての赤ん坊がいるんだよ……誰が生んだのか知らない……
いや……もしかしたら、私が生んだのかもしれない……
だから、私はうれしかったんだと思う
うん、うれしかった……
それでさ……その赤ん坊は泣くんだね……おぎゃ、おぎゃ、ってさ……
うれしくて、私とかも笑うんだよ……周りのみんなも一緒に……
それは祝福なんだよ
生命に対する……祝福
だってさ、単純にうれしいからさ……赤ちゃんがこの世界に出てきてくれて……ありがとうって……
だから世界は生の祝福で満たされる……
でもさ……でも私は気がついちゃうんだよね……
あ……違うって……
その時、私は一人で恐怖するんだよ……すべての笑顔の中で私だけが恐怖するの……
だってさ……気が付いちゃうんだもん……その子は世界を呪っているんだってさ……
生まれた事を呪っている事に……
みんなの笑顔の中で、私だけ凍り付く……祝福に包まれた世界で……一人……
その時、私は思うんだ……その赤ん坊の泣き声を止めなきゃいけないって……私は、生まれたての赤ん坊の首を絞めて……その人生をそこまでで終わらせなきゃいけないってさ……
だって、生まれるって呪いだもん……
少なくとも生まれたばかりの子供はそう考えている……だから……
その呪われた生を終わらせるために……
でもさ……当たり前だけど……出来ないんだよね
おぎゃ、おぎゃ、って泣いてる赤ん坊の首を締めるなんて出来ないよ……
なんでだろう……赤ん坊は生を呪っているのに……でも私はその生を断ち切る事が出来ない
しなきゃいけないのに……出来ない……
んでさ……私さ、うわん、うわん泣いちゃうんだよ……そんな事現実では全然ないのにさ……
そのうち……赤ん坊の泣き声がね……普通に
普通になってるのに気が付くのね……
普通に……おぎゃ、おぎゃって泣いてるんだよ……
その声を聞きながらさ…私は良かった、と思うんだ……
そして、祈るんだよ……この命に幸いあれ……って『素晴らしき日々』第六章「JabberwockyII」
この「呪われた生/祝福された生」の思想に対して、すかぢ氏の各作品のキャラクター達はどのようにして「生の意義」を見出していただろうか?
4.2. 『終ノ空』における「生」~立ち止まる者と立ち止まらない者~
『終ノ空』では、立ち止まる者「水上行人」と立ち止まらない者「間宮卓司」の対比によって「生の意義」が描かれている。どちらも「呪われた生/祝福された生」の思想に対し、それぞれ違う形で対処しようとした。
「水上行人」は自分の生きる意味/存在の意味について考えるうちに行き詰まるようになる。それを彼は、ただ立ち止まって「生」と「死」を見つめることでその意義を見出した。それに対し「間宮卓司」は、ひとつの事件をきっかけに生の無価値さに気付き、生の意義を「死」に見出そうとする。新興宗教を起こして空に還り(=死)、世界を終わらせて新たな世界へ至ることに意義を見出したのである。
世界は終わらないからこそ、世界の終わりを怖がる。
終わらない事と終わる事は表裏一体。
それは対になってこそ存在を許されている。
俺たちは不条理な生におびえている。
生まれた事を呪っている。
生と死は対になっている。『終ノ空』第四章
『終ノ空』はこの2人の2つの思想が描かれた物語であった。
4.3. 『二重影』における「生」~祈りの強さ~
『二重影』でもまたこの思想が語られている。『二重影』では、死を恐れる者「無影」と生を生きようとする者「二つ影双厳」の対比によってそれが描かれている。
「無影」は、死を恐れ、呪われた二重影の儀式に手を染めて永遠の生を手にしようとする。しかし、自身の失策によってそれは阻まれ、彼は永遠の生を手に入れるどころか死してしまう。それに対し、「二つ影双厳」は二重影の呪いによって生を脅かされるも、その呪いを食い止めながら日々を生きていく。しかし、守ろうとしていた者の死によって、自分を見失ってしまう。そんな双厳を救ったのが「祈り」である。
人の生は呪われ、そして、人の死は祝福される
人はまた生まれた者を祝福して、死んだ者を悲しみます。
すべては無明の中に消えていきます
それでも人は…祈るのです。すべての者のために
すべての死者と生者のために…
目を開けて…祈りは人の希望…信じて…双厳さま…『二重影』十二日目
人の生は呪われ、そして、人の死は祝福される。しかし、人は「祈り」によって生を祝福し、また死者を弔うことで生への希望を見出すことができる。さらに人を愛することで「生の意義」を得ることができる。この「祈り」によって、「二つ影双厳」は「生」を思い出し、ヒロインを愛する気持ちをもって「生の意義」を手にし、自己を取り戻した。
『終ノ空』では、立ち止まって見つめる事/立ち止まらず死の先に進む事で「生の意義」を見出した。それに対し、『二重影』では、「祈り」によって生への希望を見出したのである。
4.4. 『モエかん』における「生」~世界の美しさ~
さらにその先の『モエかん』ではどうだっただろうか。『モエかん』では「冬葉」という少女のシナリオで「生の意義」が描かれている。「冬葉」は自分の能力を使って、人の痛み(不幸)を取り除き、祝福を与えようとする。しかし、痛みというものは善人にも悪人にも存在しているものである。神の祝福は全ての者に与えられるが、その祝福された者も最期には皆死を迎える。「冬葉」はそのことを悟るもなお全てを救おうと全ての痛みを背負ってしまい、無理をして心を壊してしまう。『終ノ空』や『二重影』ではその事実を受け入れる、もしくは別の価値観・目的を見つける事で「生の意義」を見出そうとしたが、『モエかん』では素直に事実を受け入れてしまったがために心を壊してしまう少女が描かれた。
その少女に対し、どのような解決方法をもって救済したのか。それは「世界の美しさ」「生の美しさ」によって解決された。世界は様々な問題や矛盾を抱えているが、この「世界」そのものは美しく、それは確かに存在している。心を閉ざしてしまった「冬葉」は、「神崎貴弘」の献身的な看病の過程で「世界の美しさ」「生の美しさ」というものを認識し、心を再び開いていく。そうして「生の意義」を見出したのが『モエかん』の冬葉シナリオであった。
4.5. 『H2O』における「生」 ~前へ進む強さ
このように3つの作品でそれぞれ「生の意義」を問うたすかぢ氏。しかし、以降氏は作品を作る意義を見失う(*26)。それは『終ノ空』の物語上で「幸福」や「恋愛」を否定し、「HAPPY END」の存在すらも否定のスタンスをとっていたことによる。それに「現実がつらいのに、なんで物語の中までつらい思いをしなければならないんだ」というユーザーの意見を受け止め、スランプに陥って自身の物語が書けなくなってしまう。
それから幾年か経ち、その問題に自身の決着がついて、藤倉氏の作品『H2O』に参加する。藤倉氏はすかぢ氏と違う思想をもっており、それが作品内で神と人の関係を語ったところに表れている。『H2O』では「神は人を祝福している」「つねに人に寄り添って歩いている」という優しい世界が描かれた。そしてそこから「前に一歩踏み出すことの重要性」が描かれ、これまでのすかぢ氏の「呪われた生/祝福された生」の世界とは異なる世界観であった。氏は自身の「生の意義」の決着をつけるべく、前に一歩を踏み出して『素晴らしき日々』を制作する。
4.6. 『素晴らしき日々』における「生」~言葉と旋律~
『H2O』からいくつかの作品を経て、自らの考えをまとめる作品として執筆したのが、処女作『終ノ空』をもとにした『素晴らしき日々』である。「言葉」と「旋律」がテーマの『素晴らしき日々』では「生の意義」をどのように見出していただろうか。それは「間宮卓司」の肉体に宿る3つの不連続存在によって語られている。「水上由岐」「間宮卓司」「悠木皆守」の3人の人物。このうち、「水上由岐」と「間宮卓司」は『終ノ空』の「立ち止まる者」と「立ち止まらない者」にあたる。そして、「悠木皆守」をもって『終ノ空』では描かなかった第三の思想が描かれている。
「間宮卓司」は生きる意義を見失い、自分が理想とする人格を生みだしてその人格に全てを任せようとする。ところが、一人の少女の飛び降り自殺を契機に彼は覚醒することになる。母親から教わっていた新興宗教の教義を思い出し、「生の意義」をそこに見出す。そして自らを救世主として宗教を打ち立て、人を空に還す(=死)ことで「呪われた生」から解放されようとする。
それに対し、「水上由岐」がまず取ったのは、生を見つめる事。見つめることで、「言葉」「美しさ」「祈り」の三つの力から「生の意義」を見出した。
人は死を知らず……にも関わらず人は死を知り、そしてそれが故に幸福の中で溺れる事を覚えた……
絶望とは……幸福の中で溺れる事が出来る人にだけ与えられた特権だな
そうだね……でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた……
空を美しいと感じた……
良き世界になれと祈るようになった……
言葉と美しさと祈り……
三つの力と共に……素晴らしい日々を手にした
人よ、幸福たれ!
幸福に溺れる事なく……この世界に絶望する事なく……
ただ幸福に生きよ、みたいな『素晴らしき日々』第六章「JabberwockyII」
しかし、由岐はその思想をもったまま死してしまう。
「悠木皆守」は、その「水上由岐」の思想をもってさらに前へ一歩踏み出す。彼はもともと消滅する人格であった。けれど最後、「水上由岐」に教わった「生の意義」を思い出し、校舎から飛び降りている「間宮卓司」に変わって、生を掴むのである。その後、彼は「素晴らしき日々」を手にする。生を見つめ立ち止まるだけではなく、そこから前に進んだ「悠木皆守」、彼こそすかぢ氏が辿り着いた第三の思想だろう。
4.7. 探求の果てに ~すかぢ氏が辿り着いた結論~
『終ノ空』では、「呪われた生/祝福された生」から生じる「生への意義」に対して「立ち止まる者」と「立ち止まらない者」の2つの思想が描かれたが、この2つの思想というのはどちらもその根本的な解決方法ではなかった。この『終ノ空』を受けて、『二重影』では、それを乗り越える手段として「祈り」の強さが描かれた。そして『モエかん』では、「世界の美しさ」が描かれた。『素晴らしき日々』では、それに加えて「言葉と旋律」が描かれた。
そして『素晴らしき日々』では、「言葉」「美しさ」「祈り」、この三つの力をもって「生の意義」を見出した。その「生の意義」とは
幸福に生きよ!Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『草稿 1916年7月8日』
『素晴らしき日々』第六章「JabberwockyII」
この一文に集約される。「幸福に生きよ!」これこそが、すかぢ氏が最も言いたかったことだろう。言葉にすると簡単なことだが、それをどのようにして実践していくか、作中でキャラクター達がどのようにして幸福を目指して生きようとしていたか、そこから読み取れることは多い。そして、この「幸福に生きよ!」の先にあるのは「素晴らしき日々」である。『素晴らしき日々』の正史からそれた各「HAPPY END」ではキャラクター達が幸福に生き、「素晴らしき日々」を送っている。
「幸福に生きよ!」、さすれば、「素晴らしき日々」が待っている。
これが氏の11年にわたる「生の意義」の探求で辿り着いた結論だろう。
(*24) 『終ノ空』『二重影』『モエかん』『素晴らしき日々』の4作品。
(*25) 『モエかん MOEKKO COMPANY 公式ビジュアルファンブック』(ソフトバンクパブリッシング,2003年)p.124「ロングインタビュー ケロQ社史~モエかんへの道~」より。「呪われた生/祝福された生」の解説を参考。
(*26) 『素晴らしき日々 ~不連続存在~ 特装初回版』(ケロQ,2010年)付属『素晴らしき日々 ~不連続存在~ オフィシャルアートワークス』p.67「すかぢロングインタビュー」より。
5. 結言
本稿では、11年にわたる「生の意義」の探求と題して、すかぢ氏の作品と氏が主張する「生の意義」についてまとめた。2章では氏の多才な才能とそれによる制作への影響を述べた。3章では、氏がこれまでに制作してきた作品がどのような意図で作られ、どのような作品であったかを述べた。4章では、氏が11年にわたって作品で語ってきた「生の意義」について述べた。「幸福に生きよ!」、さすれば、「素晴らしき日々」が待っている。これが氏の11年にわたる探求で辿り着いた結論である。
これまですかぢ氏原案の作品は全て氏の「生」への思想が含まれていた。『素晴らしき日々』の制作によってこの思想がひとつの解決を見せた今、今後制作される氏の作品はどのようなものになるのだろうか?「幸福に生きよ!」の先に待っているものは?次に氏がメインライターを務める『サクラノ詩』で描かれる“その先”に注目したい。
参考:恋愛ゲームシナリオライタ論集30人30説 あとがき#2 by すかぢ論論者 udk
:エロゲーシナリオライタ論集1人×1オナヌー 「すかぢ論」 すかぢ作品に見る男性器の象徴
:カテゴリ -素晴らしき日々-(udkの雑記帳)
:『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』掲載原稿リンク集