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終ノ空 レビュー ~語りえぬことには、沈黙せねばならない~ 

2010年07月01日 ()


終ノ空タイトル    終ノ空
メーカー   ケロQ
発売日    1999年8月27日
シナリオ   すかぢ
原画      基4% , すかぢ , にのみー隊長
音楽     Bandit
プレイ時期 2007年以前
プレイ時間 5時間
評点     89






語りえぬことには、沈黙せねばならない

Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『論理哲学論考』
『終ノ空』第一章



 『終ノ空』とはこの一文を示すために作られた物語である。これを示すために最小限の構成で作られたシナリオは“電波”や“狂気”と呼ばれることも多いが、作品の本質はこの一文にある。

 本レビューでは、本作のシナリオライター兼監督のすかぢがどのようにして作中でそれを示したのか、『終ノ空』における“語り得るもの”“語り得ないもの”の2つに焦点を当てて話を進めていきます。


 『終ノ空』ではこの“語り得るもの/語り得ないもの”を提示するために、“人の認識の違い”を例にあげました。その認識の違いが出やすい構成として採用されたのがマルチビュー形式です。それは、第1章を水上行人の視点とし、第2章を若槻琴美、第3章を高島ざくろ、第4章を間宮卓司と1つの事件を4つの視点を以て語るというもの。この構成には1章では語られなかった事実が2章・3章の視点では明らかになっていくという多視点の章形式ならではの利点がありますが、この『終ノ空』ではそれ以外にもう一つ意味を持ちます。それは視点によって見える世界が全く違うということです。
 それが最もよく現れているのが1章と4章の対比です。1章の水上行人の視点で見える世界というのは私達読者にとって通常の世界でした。けれど、4章の間宮卓司の視点ではどうだったでしょうか?彼には宙に浮かぶ目玉や校舎を徘徊する死体など、水上行人の視点では見られなかったものが見られました。そして彼には終ノ空という世界の終わりを示す空まで見えていました。この間宮卓司の視点で描かれていたものは明らかに異質であり得ないものに私達読者は見えます。しかし、間宮卓司にはそう見えるのです。電波でも狂気でもなんでもなく、あの世界こそが間宮卓司の世界なのです。

 このように同じ世界を見ているはずの2人にそれぞれの視点でこのような違いが出てくるのは何故でしょうか?
 それはそれぞれが自己を有しているからであり、その自己を通して見た世界というのは全く同じということはあり得ないからです。これまでの人生の経験や考えによって、自己というものは確実に違います。自分というフィルターを通した世界はその自分にしかわかり得ません。
 これは“認識の違い”とも言えます。わかりやすく五感で例えると、人より少し光の見える波長域が広い(他人が見えない色が見える)とか、可聴領域が広いといったことでも認識の違いというのは出ます。この認識の違いのために自分の見ている世界と他人が見ている世界は完全に一致することはありません。同じ世界を見ているはずなのに違うものが見えるのです。間宮卓司の見えていたものは水上行人と極端に違っていましたが、あれがほんのわずかな違いだったらどうでしょう。ほんの少し空の色が違っていたり、かん高い音が聞こえるだけだったら?それは十分にあり得ることです。作中でも卓司の信徒達が見える終ノ空が異なっていたように、人によって見える世界が違うというのは当然のことなのです。

 このように認識の違いから“語り得るもの/語り得ないもの”を分けると、語り得るのは自分が見たものだけであり、他人が見たものについては語り得ないのです。語り得るのは自己の世界それのみで、それ以外の世界については語り得ないものなのです。もっと言えば語り得る事が出来るのは今、“この瞬間”だけとも言えます。世界というのはどうなっているのかわかりません。世界はほんの1秒前に作られて過去の記憶もその時に作られたものかもしれません。しかし、それは“語り得ない”のです。
 そして、“語り得るもの/語り得ないもの”に関係なく、世界はただ在るのです。

 以上より、『終ノ空』は“語り得るもの/語り得ないもの”を明確にすべく作られた物語であると私は考えます。


 で、『終ノ空』が作品としてどうだったか、作品全てを用いて“語り得るもの/語り得ないもの”について述べたのはすごいことです。こんな作品は他に存在しないでしょう。すかぢの制作意図がそれに限るなら、この作品は完成しています。私はこの事実に深く感銘を受けました。
 しかし、これを娯楽作品として見るとなかなか評価が難しい。普通に見るとただの電波な人達の話です。スパイラルマタイなんて電波以外の何物でもない。そういう風に電波を楽しめれば別ですが、そうでなければ難しい。もしくは、“語り得るもの/語り得ないもの”以外に多数散りばめられている作者の哲学思想を楽しめれば……。この『終ノ空』は上述のような感じで他にも作者が自分の思想を山ほど詰め込んでいて、“語り得ぬもの”以外にも、生の意義や人の存在、不連続性に関してなど様々なテーマがあります。そんな一風変わったテーマの作品を読みたい人は楽しめるのではないでしょうか。
 このように難しい作品ではありますが、ただ、何にしてもこの『終ノ空』は他の作品には決してない特異性を持っています。「語りえぬことには、沈黙せねばならない」あなたにはこの言葉がどう映るでしょうか?



 参考:考察:素晴らしき日々の世界観
     素晴らしき日々~不連続存在~ レビュー ~テーマの重要性~

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[2010.07.01(Thu) 22:46] 素晴らしき日々Trackback(0) | Comments(5)
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COMMENT

by 暇な人
終ノ空、素晴らしき日々の理解の手助けとなりました。
ありがとう

by 神奈みずき
確かに特異な作品ですよね……。
いろんな解釈の表面を切り貼りした作品とも呼べるのですが、
インパクトや禍々しさはすごいです。
古代インドの法典からも引用があると聞いたのですが、それだけは未だに読めてないという……。

素晴らしき日々と終ノ空セットで見ると
すかぢさんの変化とかがよく見れるなあとしみじみ。

by udk
>暇な人さん

このレビューが少しでも参考になったのなら幸いです。


>神奈みずきさん

>いろんな解釈の表面を切り貼りした作品
みたいですが、中には何を指しているのかわからない文章も結構ありますよね。
>古代インドの法典
なんてものもあるんですか。いったいどうしてそんなものを入れようとしたのか気になるところですね。

by wata
終ノ空は素晴らしき日々に比べてバックボーン的な説明が省かれてるので
正直なところ行人が中二病にしか思えなかったり、あっという間に物語が進行したりして
訳分からん感じが増してますね
卓司の世界に出てくる異物が素晴らしき日々と似たようで微妙に違ってるのが面白いですw

中二病は共有された世界の中では真実となる by kamimagi
ケロQ作品ってのは衒学だの、嘘科学や擬似宗教を共有したもの同士にとってはそれらは共通の認識=真実で、そういう衒学を信じることで主要な登場人物は家族みたいにつながっている(だから一般人と異なる認識をもっている)っていうのはポイントだし、あそこにあるテツガクなんて雰囲気だけなんだから、ケロQはテツガクじゃなくてパンクなメーカーなのだから。

たとえば、UDK氏は分かり合えない他人の壁を語りえぬって取り上げたけど、原作ならば、一般人じゃ意味不明な前世だのオカルトを共有している人間とは、自分と他人の認識が溶け合って分かり合っているっていう自己撞着みたいなところはあるんだよ。

他人と私は絶対的な壁に阻まれてるといいながら、現実の認識を超えた超認識(一般人と異なる認識)でつながっている、スパイラルマタイをするフレンドたちとかみればいいけど。

あと、語りえぬがなんで、原著の最後にきているかってのは重要だよね。
『およそ考えられうることはすべて明晰に考えられうる。言い表しうることはすべて明晰に言い表しうる』
っていう前提があって、それまで延々と論理にはこういう性質があるよねって語っている(物事には両極があるけど、それらは断絶してるわけじゃなくて、ものさしの端と端のようなもので連続的につながってるよとか原著にはいろいろ説明があるのね)。
で、それで大抵のことは語りえるっていう前提があるわけよ。


原著でいう語りえぬものとは何かといえば。
オタクのたいすきな、ゲーデルの不完全性定理と同じで
それ単体では、それの存在を証明できないってのと同じだろうとは思いますけどね。
自分だけが何もない空間にぽっかり居ても、自分が自分があることはわからない。人間であるかもわからない。
それらを写す鏡や触るもの、あるいは他人が居ることで自分が居る、あるいは自分が人間で社会とつながっていることを確認できる。

自分だけで自分、あるいは自分の世界を証明できない。でも他人が居ればだいたい語りえるとは思うんですけどね。

見え方が多少違っても、同じ言葉でつながっているし
だいたい判る。厳密に一緒でなくともいいけど、だいたい仕組みが同じで出来てるから、一緒に見えている。
一人一人モノをみる仕組みが違ったら、眼科なんか出来ないですしね。
逆なんですよ、厳密に私と貴方が見ているものが同じであるかは証明できないけど、コミュニケーションすれば
だいたい同じ見方を見ることは出来るし、万一同じ見方ができなくても、同じように仕事はできるんです。

長文失礼。
---------------------------------------------
>不完全性定理は「できない」というところが強調されるが、公理系を十分弱くすればこれは証明できなくなるのだから、これはZF等がいかに高い能力を持つかを示していると思うのです。
ttp://d.hatena.ne.jp/nuc/20051113/p9

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COMMENT

終ノ空、素晴らしき日々の理解の手助けとなりました。
ありがとう
[ 2010.07.02(Fri) 14:46] URL | 暇な人 #- | EDIT |

確かに特異な作品ですよね……。
いろんな解釈の表面を切り貼りした作品とも呼べるのですが、
インパクトや禍々しさはすごいです。
古代インドの法典からも引用があると聞いたのですが、それだけは未だに読めてないという……。

素晴らしき日々と終ノ空セットで見ると
すかぢさんの変化とかがよく見れるなあとしみじみ。
[ 2010.07.03(Sat) 15:05] URL | 神奈みずき #Ebgrns8Q | EDIT |

>暇な人さん

このレビューが少しでも参考になったのなら幸いです。


>神奈みずきさん

>いろんな解釈の表面を切り貼りした作品
みたいですが、中には何を指しているのかわからない文章も結構ありますよね。
>古代インドの法典
なんてものもあるんですか。いったいどうしてそんなものを入れようとしたのか気になるところですね。
[ 2010.07.03(Sat) 21:29] URL | udk #QsgttT26 | EDIT |

終ノ空は素晴らしき日々に比べてバックボーン的な説明が省かれてるので
正直なところ行人が中二病にしか思えなかったり、あっという間に物語が進行したりして
訳分からん感じが増してますね
卓司の世界に出てくる異物が素晴らしき日々と似たようで微妙に違ってるのが面白いですw
[ 2010.07.12(Mon) 00:25] URL | wata #- | EDIT |

ケロQ作品ってのは衒学だの、嘘科学や擬似宗教を共有したもの同士にとってはそれらは共通の認識=真実で、そういう衒学を信じることで主要な登場人物は家族みたいにつながっている(だから一般人と異なる認識をもっている)っていうのはポイントだし、あそこにあるテツガクなんて雰囲気だけなんだから、ケロQはテツガクじゃなくてパンクなメーカーなのだから。

たとえば、UDK氏は分かり合えない他人の壁を語りえぬって取り上げたけど、原作ならば、一般人じゃ意味不明な前世だのオカルトを共有している人間とは、自分と他人の認識が溶け合って分かり合っているっていう自己撞着みたいなところはあるんだよ。

他人と私は絶対的な壁に阻まれてるといいながら、現実の認識を超えた超認識(一般人と異なる認識)でつながっている、スパイラルマタイをするフレンドたちとかみればいいけど。

あと、語りえぬがなんで、原著の最後にきているかってのは重要だよね。
『およそ考えられうることはすべて明晰に考えられうる。言い表しうることはすべて明晰に言い表しうる』
っていう前提があって、それまで延々と論理にはこういう性質があるよねって語っている(物事には両極があるけど、それらは断絶してるわけじゃなくて、ものさしの端と端のようなもので連続的につながってるよとか原著にはいろいろ説明があるのね)。
で、それで大抵のことは語りえるっていう前提があるわけよ。


原著でいう語りえぬものとは何かといえば。
オタクのたいすきな、ゲーデルの不完全性定理と同じで
それ単体では、それの存在を証明できないってのと同じだろうとは思いますけどね。
自分だけが何もない空間にぽっかり居ても、自分が自分があることはわからない。人間であるかもわからない。
それらを写す鏡や触るもの、あるいは他人が居ることで自分が居る、あるいは自分が人間で社会とつながっていることを確認できる。

自分だけで自分、あるいは自分の世界を証明できない。でも他人が居ればだいたい語りえるとは思うんですけどね。

見え方が多少違っても、同じ言葉でつながっているし
だいたい判る。厳密に一緒でなくともいいけど、だいたい仕組みが同じで出来てるから、一緒に見えている。
一人一人モノをみる仕組みが違ったら、眼科なんか出来ないですしね。
逆なんですよ、厳密に私と貴方が見ているものが同じであるかは証明できないけど、コミュニケーションすれば
だいたい同じ見方を見ることは出来るし、万一同じ見方ができなくても、同じように仕事はできるんです。

長文失礼。
---------------------------------------------
>不完全性定理は「できない」というところが強調されるが、公理系を十分弱くすればこれは証明できなくなるのだから、これはZF等がいかに高い能力を持つかを示していると思うのです。
ttp://d.hatena.ne.jp/nuc/20051113/p9
[ 2010.08.07(Sat) 13:56] URL | kamimagi #mQop/nM. | EDIT |

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