TOP > 立ち絵が座る瞬間 ~立ち絵演出考察(1)立ち絵配置による舞台形成~
 ← 立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~ | TOP | 絵とネタバレと

スポンサーサイト 

--年--月--日 (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[RSS] [Admin] [NewEntry]

[--.--.--(--) --:--] スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
↑TOPへ


立ち絵が座る瞬間 ~立ち絵演出考察(1)立ち絵配置による舞台形成~ 

2012年04月04日 ()
 

◆立ち絵が座る瞬間


 ノベルゲームではお馴染みの立ち絵ですが、ここで問題です。この立ち絵を使ってキャラクターが座っている状態を作るにはどうすればいいでしょうか?



 何の変哲もない立ち絵


 キャラクターが座っている立ち絵を新規に書き起こすというのもひとつの手ですが、ここでは通常の立ち絵(立っているポーズ)を使用することとします。
 答えはこちら↓



















 立ち絵が座る瞬間


 はい、座りましたー。
 ちゃぶ台にうまく隠れるように立ち絵の位置を調整して、あたかも座っているように見せかけています。
 うまい立ち絵配置のひとつです。

 では、次に、このちゃぶ台に10人のキャラクターが座っている場面を作るにはどうすればいいでしょうか?
 答えはこちら↓























 恋色空模様_10人座り


 はい、10人座りましたー。
 立ち絵の配置をうまく調整して、10人のキャラクターが座っているように見せかけています。
 ちょうど主人公がいるであろう場所もしっかり空けて。
 ちゃぶ台に10人が勢揃いしている場面は若干……どころではなくやりすぎ感が漂いますけど、こんな無茶なこともできるようです。



 今例に挙げているすたじお緑茶の『恋色空模様』では他にも様々な場面で立ち絵が座っていました。


 座る校長

 座る紳士



 なかなか見事な腕前です。どれもちゃんと座っているように見えます。


 さて、このように立ち絵を座らせるためには、技術的にどのようなことが必要になるかというと……

 (a)画面上X,Y座標の任意の位置に対象物(立ち絵・背景)を配置可能であること。
 (b)対象物(立ち絵・背景)を任意の値に拡大・縮小することが可能であること。
 (c)対象物(立ち絵・背景)のレイヤーを自由に設定可能であること。
 (d)背景が複数の絵を組み合わせたものであり、背景中のある絵のレイヤーだけを自由に調整可能であること(上記の画像で言うちゃぶ台のレイヤーが自由に設定可能であること)。

 簡単に考えると上の4条件が必要になるのではないかと思われます。他にも必要な条件はあるかもしれませんが、大事なのはこの4条件でしょう。
 (技術案件とは違いますが、立ち絵の差分を多く用意しておくことも重要です)



 『恋色空模様』では座っている以外に他にも……


 あとは教壇があれば完璧
 金髪ツインテールの悪魔



 集会や下駄箱での風景といった難しいものもうまく表現しています。このように、立ち絵の配置を工夫することによって、一枚絵とまではいきませんが、それに近い特殊な場面を生み出すことに成功しています。
 『恋色空模様』ではこのような立ち絵の配置を工夫した演出が随所に見られました。この背景における立ち絵の配置を利用した舞台形成に関してはすたじお緑茶は現状ではトップクラスでしょう。

 一応、こうした表現は他のブランドでもいくつか見ることが出来ます。


 このうちひとりはデフォルトで座っているキャラだったり……
  ↑晴れときどきお天気雨(ぱれっと,2011)

 立ち絵と一枚絵の区別が難しいところですが、おおそらくこれは立ち絵的素材
  ↑魔法使いの夜(TYPE-MOON,2012予定)


 このようにいくつかの先進的なブランドでは立ち絵による舞台形成が試みられています。
 一枚絵さながらの場面を作れるこの演出、効果的に使えば、既存の素材を組み合わせて様々な状況を生み出せることでしょう。








◆立ち絵配置による舞台形成へ至るまで



 立ち絵配置による舞台形成ですが、この背景と立ち絵の位置関係というのはノベルゲームの発展と共に進化していった側面を持っています。



(1)その昔、背景と立ち絵はそれぞれ独立した機能を持っていました。立ち絵はそこにいるキャラクターを、背景はそのキャラクターがいる場所をそれぞれ表わしていました。背景の中で立ち絵が立っている位置にキャラクターがいるわけではありません。立ち絵と背景は別々の意味を持っていたわけです。


 高次元の認識に向かい!上りたまえ!



(2)それから立ち絵の位置をある程度調節できるようになり、立ち絵と立ち絵の位置関係からキャラクターの距離感、立ち絵の大きさから視点人物との距離感(遠近感)を表わすことができるようになりました。


 科学部部長のお言葉
  ↑3人のキャラクターの距離感
 弁証法的螺旋階段! 高次元の認識に向かい、上りたまえ
  ↑視点人物と他のキャラクターの距離感



(3)さらに立ち絵を自由な位置に配置させることができるようになると、背景を舞台に立ち絵を使って一種の場面を形成することができるようになりました。


 ギャーーー!!

 戦闘シーンです



 つまり、どういうことかというと……
 (1)での立ち絵は、背景の場所にキャラクターがいることを表わす。
 (2)での立ち絵は、背景の場所でのキャラクター同士の距離感を表わす
 (3)での立ち絵は、背景の中でキャラクターがどこで何をしているのかを表わす。


 このように独立した役割を持っていた立ち絵と背景が、背景の中に立ち絵を埋め込むことによって共存しているわけです。背景と立ち絵を組み合わせることで新しい意味を生み出すことに成功しています。

 こうして並べると、ノベルゲームの演出の進歩の一例(※1)を見ることができます。
 新しい技術で、新しい何かができるようになって、新しい表現が生まれる。その技術というのはもともとこんな表現をやりたいというアイディア(要求)によって生まれたものです。この進歩はアイディアと技術のふたつがうまく合わさった結果と言えるでしょう。
 そしてそれだけではなく……、立ち絵と背景を組み合わせて場面を形成するのは、従来の立ち絵演出と比べてかかる労力(スクリプト作業※2)がとても大きいと想定されます。技術を以てそれを成し得たことも評価できるポイントのひとつでしょう。



 ノベルゲームならではの表現技法“立ち絵”、その立ち絵も配置によってこれほどのことができるようになりました。この立ち絵配置による舞台形成で、テキストでは表現しきれなかった新しい表現が行われることに期待していきたいところです。







※1:もちろん、これとは別の方向に進歩していった作品もあります。
   例:背景の中にキャラクターを書き込む手法など。『腐り姫』Liar,『ef』『eden*』minori他
※2:スクリプトを打ち込んでいく作業も大変ですが、どのようにキャラクターを配置するかという点でシーン毎に配置を考える演出的な作業も時間がかかるようになると考えられます。





 参考:立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~ -udkの雑記帳-
    テキストウィンドウ考察(1)可変型テキストウィンドウの可能性 -udkの雑記帳-
    ノベルゲームの演出が行き着くところ ~ノベルゲームの技術進歩と未来~ -udkの雑記帳-
    恋色空模様 演出考 ~脱紙芝居。紙芝居から人形劇へ。演劇的立ち絵表現の追求~-udkの雑記帳-
    演出論的覚書:Ⅰ章2節:すたじお緑茶の立ち絵演出 -cactus backyard- 
    演出論的覚書:Ⅲ章1節2款:ぱれっとの空間的演出 -cactus backyard-





[RSS] [Admin] [NewEntry]

[2012.04.04(Wed) 21:30] ノベルゲーコラムTrackback(0) | Comments(4)
↑TOPへ


COMMENT

by cactus
 拝読しました。連載の途中でコメントを差し上げることに躊躇もありますが、書かせていただきます。前半部分、立ち絵のスクリプト指定によって様々な視覚描写が可能になるというご指摘は適切だと思いますが、後半部分――そうした表現が試みられてきた経緯――についていくつか疑問があります。
 一つは、「AVGは当初は、背景画像は場所を、立ち絵は人物を、それぞれ別個独立かつ抽象的に示すものだった」という認識について。『ポートピア~』のようなドット絵の時代ならいざ知らず、少なくとも「サウンドノベル」(『かまいたちの夜』1994年)乃至は「Visual Novel」(『雫』1996年)に関しては、それが成立した最初の瞬間からすでに、人物画像と背景画像のすり合わせと組み立てによる画面構築は存在しました、あるいは、そうするのが当然でした。むしろ、我々が現在知るような「立ち絵/背景」のきれいな二分法は、人物と背景の柔軟で複合的な組み立ての中から次第にシステマティックに分離され整理されてきたものではないかと思います。つまり、この記事で仰っている「ノベルゲームの発展」のプロセスは、立ち絵の機能と可能性に関する「論理的」な説明の順序としては非常にクリアで説得的なものですが、実際の「歴史的」経緯としてはむしろ逆ではないかと思われます。ここで想定しておられるような抽象的な立ち絵/背景システムは、AVGのプロトタイプにすでに存在していたものなのではなく、またその歴史の比較的初期のある時点でそれなりに優勢であったとしてもそのタイミングを歴史上の原点と見做すべき理由も無く、そして実際には常に例外的な実験作――例えば『終ノ空』『白詰草話』『Forest』――の中にのみ現れ続けてきたように思います。
 具体例に即して述べますと、例えば1994年『かまいたちの夜』では、人物画像は単色影絵形態ながらすでにその都度の背景画像に正確に組み込まれた形で画像制作されていました(例:階段の途中から見下ろす姿、ソファに腰掛ける姿、玄関口に現れた遠景の姿、等々)。1996年の『痕』でも、仏壇に向かって正座する姿やベッドに寝そべる姿などの「立ち絵」が使用されています。AVGにおいて「立ち絵/背景」の明確な二分法が確立されたのは『To Heart』(1997年)あたりが契機かと想像されます(私も当時の状況はよく知りません)が、さらに2001年、『君が望む永遠』や『はるのあしおと』においても、立ち絵による空間表現や立ち絵の背景への嵌め込みははっきりと意識されているのが見て取れます。
 もう一つ。立ち絵による着座表現のために必要な技術的条件について。トリヴィアルな話になりますが、立ち絵のサイズ変化は「任意」の倍率である必要は無いと思います。その作品のデフォルトと見做されるサイズから、「大きい」形態と「小さい」形態とが識別できればよいので。実際、そうしたサイズ差分は、スクリプトエンジンによって拡縮制御されている場合もありますが、そうではなくて単純にサイズの異なる数種の画像がデータとして用意されているという場合もあり、そして距離感表現の表現効果を評価するうえで双方の違いは重要ではありません。
 あと、minoriもこの流れに属する一例と捉えてよいのではないかと思います。特に『eden*』では、ああ見えて汎用立ち絵もわりと使用していた憶えがあります。
 いずれにせよ、個別的な「演出技法」の話を超えた、AVGに関する正格の「表現システム論」の水準での貴重な論考に、たいへん考えさせられました。立ち絵がどこまで/どのように記号的でありあるいは写実志向的であるのか。立ち絵スクリプトが舞台を作り出していくのか(緑茶)、それとも背景が積極的に舞台を提供していくのか(minori?)、あるいは応用として中間形態(ぱれっと)や複合形態(clochette)にどのような可能性があるのか。などなど、視野が広がりそうです。
 (長文失礼しました。)

by udk
 丁寧なコメントありがとうございます。
 このシリーズは全4回の予定なので連載というほど長くはありませんが、よろしければもうしばらくお付き合い下さい。

 少々遅くなりましたが、コメントの方のレスを。



立ち絵と背景の経緯について -ToHeart以前-

 定かではありませんがToHeart以前以降という括りで話を進めていきます。
 ご指摘の通りサウンドノベル時代の経緯としては怪しいものになっています。『ToHerat』以降の流れとしての発展になっていますね。これについては補足が必要になりそうです。
 立ち絵と背景の区別が意識されていなかった時代から、立ち絵と背景を二分する方にシフトしていった流れは検討してみるとおもしろそうですね。マルチウィンドウのシステムが廃れてしまったようにその時代に何があったのか、というのは興味をそそられます。


立ち絵と背景の経緯について -ToHeart以降-

 これはおそらく私とcactusさんの認識がずれている部分だと思います。私はPC美少女ゲームのうち、ノベルゲーム分野では現在でもほとんどの作品が「立ち絵と背景は独立している」と考えています。本記事で示した(2)の場合だと、立ち絵と背景は独立していると捉えています。『終ノ空』は別に例外ではないでしょう。むしろ例外なのは、立ち絵を背景に溶け込ませるように配置させている作品です。
 偶然、立ち絵を背景とマッチできるように配置できている作品はたまにありますが、絶えず意識して立ち絵と背景を組み合わせて場面を作ろうとしているブランドはごく少数です。minoriやぱれっとはその少ない中の例です。minoriは『はるのあしおと』以降演出を大きく変えていて、演出の手段のひとつとして立ち絵(汎用絵)を背景と組み合わせるということもなされています。ぱれっとは立ち絵と背景が独立しているシーンがほとんどですが、比較的実現容易ないくつかの限られたシーンについては徐々に立ち絵と背景を組み合わせが行われていっています。clochetteは未プレイなので、コメントができないです。
 背景と立ち絵が独立している作品群の中に、緑茶、minori、ぱれっとのように立ち絵と背景を組み合わせる表現を進めていっているブランドがあるというのが私の認識です。


立ち絵サイズの拡大縮小について

 緑茶の演出基準で考えていたら拡大縮小の機能も必須の技術要件と考えてしまいました。あらかじめ拡大縮小した画像を用意しておくのは確かに有効でしょう。拡大縮小した画像を数パターン用意するだけで良いのならそれで十分だと思います。広義での差分を多く用意するということになります。
 ゲームエンジン上で拡大縮小ができないとしんどいのは拡大縮小が何種類も必要な場合でしょうか。その都度立ち絵の大きさを調整して場面を作成したり、立ち絵を移動させながら拡大縮小したりする緑茶レベルの演出の場合でしょうか。ぱれっとがやってるレベルだと無理に倍率調整しなくともなんとかなりそうですね。



 今回は『恋色空模様』を中心に話を進めていきますが、他のブランドでどのような演出が行われているかということもいつか検討していきたいです。さしあたってclochetteに少々興味が……。

by cactus
 お返事ありがとうございます。
 立ち絵画像と背景画像の独立性に関するお互いの立場の違いは、「認識がずれている」(認識の違い)というよりは、用語法の違いに還元できる面もあるように思われます。現在の大多数のAVGタイトルは、「正面構図の背景画像と、その背景画像の形状に対して《それなりに》マッチしている立ち絵正対画像の中央/並列表示」という組み立てで成り立っています。こうした立ち絵のサイズ及び位置指定は、その瞬間毎の特別の具体的描写を行うものではないにしても、少なくとも、《それらしく見えるように》――つまり、立ち絵が水上や車道や机上に立っているようには見えないように――最低限の配慮がなされているのが通例です。もしも本当に理念上独立に扱われ得るならば、(例えば『Forest』のように)遠景俯瞰の背景画像や宙空に浮いた立ち絵表示を採用しても構わないわけですが、ほとんどの作品は「(曲がりなりにも)地に足の着いた」形で背景+立ち絵の組み立てを行っています。そのように、”積極的”な表現を行っているのではなくとも、「違和感を与えない」という程度の”消極的”なすり合わせはたいていの作品で確保されています(――引用しておられる『素晴らしき日々』画像では明らかな齟齬が見られますが、私はこれをレアケースとして認識しています)。このような「弱い整合性配慮」について、udkさんは「偶然、立ち絵を背景とマッチできるように配置できている作品はたまにあります」と仰っていますが、私見では(1)それらは偶然ではなく意図された構図選定に基づくものであり、かつ(2)それらはけっして少数ではなく広く行われている一般的な制作上の考慮だと考えており、そして(3)私はこれを「具体的(写実志向的)な組み立てが存在しない=『絶えず意識して立ち絵と背景を組み合わせて場面を作ろうとしている』わけではない=独立性がある」という捉え方の側に寄せるのではなく「具体的(特定的)な"強度の一致"は無いが、弱い(消極的な)整合性配慮は確かに存在する」という側に寄せて分類しているということです。結局のところ、明示的な相互独立スタイル(『終ノ空』『白詰草話』『Forest』『シャルノス』『空帝』『忍流』等)と、具体的な嵌め込みスタイル(『はるおと』『オルタ』『片恋いの月』『eden*』『ましろ色』等)という両極の間には、「弱い(消極的な)整合性」の豊かで多様な中間項が広がっており、その中間項をどちら側に引き寄せるかの問題であるように思われます。

by udk
 コメントありがとうございます。独立である/独立でないの二元されていたものに中間を取り入れることでより整理しやすくなりました。
 これでだいぶ私とcactusさんの間のすり合わせが行われたと思います。

 ・明示的な相互独立スタイル
 ・弱い(消極的な)整合性
 ・具体的な嵌め込みスタイル

 この3つに分類するとして「弱い(消極的な)整合性」を独立であるか独立でないかとするということですね。これ以上は個々人の感覚によるところなので、「弱い(消極的な)整合性」をどちらとするかはおいておきましょう。

 その「弱い(消極的な)整合性」に含まれる作品群の中でも、そのすり合わせがどの程度行われているかというのは作品によって異なるでしょう。すり合わせがうまくいって立ち絵との齟齬が少ない作品もあれば逆に齟齬が多い作品もあります。そして、それは作品内でも、すり合わせがうまくできている背景と全くできていない背景があると考えられます。本記事であげた『素晴らしき日々』の画像は決してレアケースではありません。背景絵をいくつも用意できる作品ではその都度場面にあった背景を用意することができますが、用意できる背景絵が限られている場合簡単に齟齬が生じてしまいます。本記事の『素晴らしき日々』の2枚目の画像の場合、授業中の背景絵はこれ一枚であり、授業中は全てこの背景を使用しなければなりません。そのために授業中に登場人物が起立しているこの状況では全て齟齬が生じているわけです。このような状況はこのシーンだけに限りませんし、他の作品でも見られるものです。逆に『素晴らしき日々』でも比較的齟齬が少ない場面もあります。背景の構図指定がうまくいき、立ち絵の配置条件も整った結果、作品内で「具体的な嵌め込みスタイル」と大差ないレベルの場面が作られることはあると思います。


 3つに分類するとしても境界上の作品があったり、その中でもどの程度分類の趣旨にあった作品になっているかは、作品がいくつも存在している限りケースバイケースになってしまうので難しいですね。

コメントを閉じる▲

 ← 立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~ | TOP | 絵とネタバレと

COMMENT

 拝読しました。連載の途中でコメントを差し上げることに躊躇もありますが、書かせていただきます。前半部分、立ち絵のスクリプト指定によって様々な視覚描写が可能になるというご指摘は適切だと思いますが、後半部分――そうした表現が試みられてきた経緯――についていくつか疑問があります。
 一つは、「AVGは当初は、背景画像は場所を、立ち絵は人物を、それぞれ別個独立かつ抽象的に示すものだった」という認識について。『ポートピア~』のようなドット絵の時代ならいざ知らず、少なくとも「サウンドノベル」(『かまいたちの夜』1994年)乃至は「Visual Novel」(『雫』1996年)に関しては、それが成立した最初の瞬間からすでに、人物画像と背景画像のすり合わせと組み立てによる画面構築は存在しました、あるいは、そうするのが当然でした。むしろ、我々が現在知るような「立ち絵/背景」のきれいな二分法は、人物と背景の柔軟で複合的な組み立ての中から次第にシステマティックに分離され整理されてきたものではないかと思います。つまり、この記事で仰っている「ノベルゲームの発展」のプロセスは、立ち絵の機能と可能性に関する「論理的」な説明の順序としては非常にクリアで説得的なものですが、実際の「歴史的」経緯としてはむしろ逆ではないかと思われます。ここで想定しておられるような抽象的な立ち絵/背景システムは、AVGのプロトタイプにすでに存在していたものなのではなく、またその歴史の比較的初期のある時点でそれなりに優勢であったとしてもそのタイミングを歴史上の原点と見做すべき理由も無く、そして実際には常に例外的な実験作――例えば『終ノ空』『白詰草話』『Forest』――の中にのみ現れ続けてきたように思います。
 具体例に即して述べますと、例えば1994年『かまいたちの夜』では、人物画像は単色影絵形態ながらすでにその都度の背景画像に正確に組み込まれた形で画像制作されていました(例:階段の途中から見下ろす姿、ソファに腰掛ける姿、玄関口に現れた遠景の姿、等々)。1996年の『痕』でも、仏壇に向かって正座する姿やベッドに寝そべる姿などの「立ち絵」が使用されています。AVGにおいて「立ち絵/背景」の明確な二分法が確立されたのは『To Heart』(1997年)あたりが契機かと想像されます(私も当時の状況はよく知りません)が、さらに2001年、『君が望む永遠』や『はるのあしおと』においても、立ち絵による空間表現や立ち絵の背景への嵌め込みははっきりと意識されているのが見て取れます。
 もう一つ。立ち絵による着座表現のために必要な技術的条件について。トリヴィアルな話になりますが、立ち絵のサイズ変化は「任意」の倍率である必要は無いと思います。その作品のデフォルトと見做されるサイズから、「大きい」形態と「小さい」形態とが識別できればよいので。実際、そうしたサイズ差分は、スクリプトエンジンによって拡縮制御されている場合もありますが、そうではなくて単純にサイズの異なる数種の画像がデータとして用意されているという場合もあり、そして距離感表現の表現効果を評価するうえで双方の違いは重要ではありません。
 あと、minoriもこの流れに属する一例と捉えてよいのではないかと思います。特に『eden*』では、ああ見えて汎用立ち絵もわりと使用していた憶えがあります。
 いずれにせよ、個別的な「演出技法」の話を超えた、AVGに関する正格の「表現システム論」の水準での貴重な論考に、たいへん考えさせられました。立ち絵がどこまで/どのように記号的でありあるいは写実志向的であるのか。立ち絵スクリプトが舞台を作り出していくのか(緑茶)、それとも背景が積極的に舞台を提供していくのか(minori?)、あるいは応用として中間形態(ぱれっと)や複合形態(clochette)にどのような可能性があるのか。などなど、視野が広がりそうです。
 (長文失礼しました。)
[ 2012.04.06(Fri) 01:43] URL | cactus #- | EDIT |

 丁寧なコメントありがとうございます。
 このシリーズは全4回の予定なので連載というほど長くはありませんが、よろしければもうしばらくお付き合い下さい。

 少々遅くなりましたが、コメントの方のレスを。



立ち絵と背景の経緯について -ToHeart以前-

 定かではありませんがToHeart以前以降という括りで話を進めていきます。
 ご指摘の通りサウンドノベル時代の経緯としては怪しいものになっています。『ToHerat』以降の流れとしての発展になっていますね。これについては補足が必要になりそうです。
 立ち絵と背景の区別が意識されていなかった時代から、立ち絵と背景を二分する方にシフトしていった流れは検討してみるとおもしろそうですね。マルチウィンドウのシステムが廃れてしまったようにその時代に何があったのか、というのは興味をそそられます。


立ち絵と背景の経緯について -ToHeart以降-

 これはおそらく私とcactusさんの認識がずれている部分だと思います。私はPC美少女ゲームのうち、ノベルゲーム分野では現在でもほとんどの作品が「立ち絵と背景は独立している」と考えています。本記事で示した(2)の場合だと、立ち絵と背景は独立していると捉えています。『終ノ空』は別に例外ではないでしょう。むしろ例外なのは、立ち絵を背景に溶け込ませるように配置させている作品です。
 偶然、立ち絵を背景とマッチできるように配置できている作品はたまにありますが、絶えず意識して立ち絵と背景を組み合わせて場面を作ろうとしているブランドはごく少数です。minoriやぱれっとはその少ない中の例です。minoriは『はるのあしおと』以降演出を大きく変えていて、演出の手段のひとつとして立ち絵(汎用絵)を背景と組み合わせるということもなされています。ぱれっとは立ち絵と背景が独立しているシーンがほとんどですが、比較的実現容易ないくつかの限られたシーンについては徐々に立ち絵と背景を組み合わせが行われていっています。clochetteは未プレイなので、コメントができないです。
 背景と立ち絵が独立している作品群の中に、緑茶、minori、ぱれっとのように立ち絵と背景を組み合わせる表現を進めていっているブランドがあるというのが私の認識です。


立ち絵サイズの拡大縮小について

 緑茶の演出基準で考えていたら拡大縮小の機能も必須の技術要件と考えてしまいました。あらかじめ拡大縮小した画像を用意しておくのは確かに有効でしょう。拡大縮小した画像を数パターン用意するだけで良いのならそれで十分だと思います。広義での差分を多く用意するということになります。
 ゲームエンジン上で拡大縮小ができないとしんどいのは拡大縮小が何種類も必要な場合でしょうか。その都度立ち絵の大きさを調整して場面を作成したり、立ち絵を移動させながら拡大縮小したりする緑茶レベルの演出の場合でしょうか。ぱれっとがやってるレベルだと無理に倍率調整しなくともなんとかなりそうですね。



 今回は『恋色空模様』を中心に話を進めていきますが、他のブランドでどのような演出が行われているかということもいつか検討していきたいです。さしあたってclochetteに少々興味が……。
[ 2012.04.08(Sun) 16:35] URL | udk #QsgttT26 | EDIT |

 お返事ありがとうございます。
 立ち絵画像と背景画像の独立性に関するお互いの立場の違いは、「認識がずれている」(認識の違い)というよりは、用語法の違いに還元できる面もあるように思われます。現在の大多数のAVGタイトルは、「正面構図の背景画像と、その背景画像の形状に対して《それなりに》マッチしている立ち絵正対画像の中央/並列表示」という組み立てで成り立っています。こうした立ち絵のサイズ及び位置指定は、その瞬間毎の特別の具体的描写を行うものではないにしても、少なくとも、《それらしく見えるように》――つまり、立ち絵が水上や車道や机上に立っているようには見えないように――最低限の配慮がなされているのが通例です。もしも本当に理念上独立に扱われ得るならば、(例えば『Forest』のように)遠景俯瞰の背景画像や宙空に浮いた立ち絵表示を採用しても構わないわけですが、ほとんどの作品は「(曲がりなりにも)地に足の着いた」形で背景+立ち絵の組み立てを行っています。そのように、”積極的”な表現を行っているのではなくとも、「違和感を与えない」という程度の”消極的”なすり合わせはたいていの作品で確保されています(――引用しておられる『素晴らしき日々』画像では明らかな齟齬が見られますが、私はこれをレアケースとして認識しています)。このような「弱い整合性配慮」について、udkさんは「偶然、立ち絵を背景とマッチできるように配置できている作品はたまにあります」と仰っていますが、私見では(1)それらは偶然ではなく意図された構図選定に基づくものであり、かつ(2)それらはけっして少数ではなく広く行われている一般的な制作上の考慮だと考えており、そして(3)私はこれを「具体的(写実志向的)な組み立てが存在しない=『絶えず意識して立ち絵と背景を組み合わせて場面を作ろうとしている』わけではない=独立性がある」という捉え方の側に寄せるのではなく「具体的(特定的)な"強度の一致"は無いが、弱い(消極的な)整合性配慮は確かに存在する」という側に寄せて分類しているということです。結局のところ、明示的な相互独立スタイル(『終ノ空』『白詰草話』『Forest』『シャルノス』『空帝』『忍流』等)と、具体的な嵌め込みスタイル(『はるおと』『オルタ』『片恋いの月』『eden*』『ましろ色』等)という両極の間には、「弱い(消極的な)整合性」の豊かで多様な中間項が広がっており、その中間項をどちら側に引き寄せるかの問題であるように思われます。
[ 2012.04.08(Sun) 20:32] URL | cactus #- | EDIT |

 コメントありがとうございます。独立である/独立でないの二元されていたものに中間を取り入れることでより整理しやすくなりました。
 これでだいぶ私とcactusさんの間のすり合わせが行われたと思います。

 ・明示的な相互独立スタイル
 ・弱い(消極的な)整合性
 ・具体的な嵌め込みスタイル

 この3つに分類するとして「弱い(消極的な)整合性」を独立であるか独立でないかとするということですね。これ以上は個々人の感覚によるところなので、「弱い(消極的な)整合性」をどちらとするかはおいておきましょう。

 その「弱い(消極的な)整合性」に含まれる作品群の中でも、そのすり合わせがどの程度行われているかというのは作品によって異なるでしょう。すり合わせがうまくいって立ち絵との齟齬が少ない作品もあれば逆に齟齬が多い作品もあります。そして、それは作品内でも、すり合わせがうまくできている背景と全くできていない背景があると考えられます。本記事であげた『素晴らしき日々』の画像は決してレアケースではありません。背景絵をいくつも用意できる作品ではその都度場面にあった背景を用意することができますが、用意できる背景絵が限られている場合簡単に齟齬が生じてしまいます。本記事の『素晴らしき日々』の2枚目の画像の場合、授業中の背景絵はこれ一枚であり、授業中は全てこの背景を使用しなければなりません。そのために授業中に登場人物が起立しているこの状況では全て齟齬が生じているわけです。このような状況はこのシーンだけに限りませんし、他の作品でも見られるものです。逆に『素晴らしき日々』でも比較的齟齬が少ない場面もあります。背景の構図指定がうまくいき、立ち絵の配置条件も整った結果、作品内で「具体的な嵌め込みスタイル」と大差ないレベルの場面が作られることはあると思います。


 3つに分類するとしても境界上の作品があったり、その中でもどの程度分類の趣旨にあった作品になっているかは、作品がいくつも存在している限りケースバイケースになってしまうので難しいですね。
[ 2012.04.08(Sun) 22:58] URL | udk #QsgttT26 | EDIT |

COMMENT POST















管理者にだけ表示

Trackback

この記事のURL:
http://udk.blog91.fc2.com/tb.php/691-823d0042
 ← 立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~ | TOP | 絵とネタバレと

カレンダー

プロフィール

カテゴリー

twitter

人気エントリー

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

リンク

記事一覧

ブログ内検索

メッセージフォーム

応援中

今後発売の期待作

オススメ作品

RSS

FC2カウンター

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。