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2012年7月19日 世界が終わる前日 

2012年07月19日 ()

 お久しぶりです。最近どうも別の自分が私に変わって過ごしていたようで記憶があやふやなのですが、ノベルゲーム大好きな私は久々の登場です。
 『恋愛ゲームシナリオライター30人×30説+』に投稿した「すかぢ論」を公開しました。


 『恋愛ゲームシナリオライター30人×30説+』 すかぢ論 ~11年にわたる「生の意義」の探求~


 いろいろ思い入れのある論考です。今読み返してこれで良かったのかという思いに苛まれるところもありますが、どうなんでしょうね。
 読んだことがある方も多いでしょうが、まだ読んでない人はぜひどうぞ。



 ……



 我らが救世主の間宮様によると、世界は明日には滅びるそうなので、今ここで公開しても誰も読むことはなく終わることでしょう。これを読むのは空に還って新しい世界に至った人だけでしょうね。


 ……


 もうすぐビッグハザードが来るということで、最近は『素晴らしき日々』を再度読み返したりしていました。読み返すとまたいろいろ考えるところがあって読みながら書き留めていっていたのですが、残念ながらもう時間が来たようです。この終ノ空-素晴らしき日々論もお蔵入りですかね。何度読んでも行きつくところは同じだったなぁ。




 それでは終ノ空を見てきます。
 私の住んでるところはマンションの5階で下はちょっとした崖になっているので、うまくアタマリバースすれば空に還れるかもしれません。さすれば私も間宮様のようになれるかも!








 さて、私にはどんな空が見えるでしょうか? 最後の空を堪能してきます。























 由岐姉の幽霊に「幸福に生きよ!」って言われたような気がしたので、ベランダから戻ってきました。

 スパイラルマタイはまたの機会に。


























 でも……もし違う世界が見れるのなら、その先に行ってみるのもいいのかもなぁ……








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[2012.07.19(Thu) 00:47] 素晴らしき日々Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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恋愛ゲームシナリオライター30人×30説+ すかぢ論 ~11年にわたる「生の意義」の探求~ 

2012年07月19日 ()

恋愛ゲームシナリオライター30人×30説+


すかぢ論 ~11年にわたる「生の意義」の探求~


論者:udk







初出『恋愛ゲームシナリオライタ論集30人×30説+』
『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』掲載原稿リンク集




続きを読む↓



0. 序文



他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない。

Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『青色本』



 これはすかぢ氏に多大な影響を与えた哲学者の著作の命題のひとつである。人が他人を本質的に理解する事は出来ず、それゆえに他人の全てを語る事はできないということを明示している。



語りえぬことには、沈黙せねばならない。

Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『論理哲学論考』
『終ノ空』第一章



 私はすかぢ氏と直接の面識を持っていない。直接会った事も話した事もない。ゆえに、私が明晰に語り得るのは氏が世に発表した作品とそれについて氏が記した書物だけである。それ以外については沈黙せざるを得ない。であるからして、本稿では氏について作品から語り得ることだけを記す。






1. 緒言



この作品を…
全ての呪われた生と…
祝福された生に…
捧げる…。

『終ノ空』最終章



 本稿「すかぢ論」のメインテーマ「生の意義」について述べる。人の「生の意義」には二通りの解釈ができる。ひとつが「祝福された生」、もうひとつが「呪われた生」である。「祝福された生」とは、人の世には幸なものも不幸なものもすべて祝福されて存在しているということである。対して「呪われた生」とは、あらゆるものが祝福されて存在しているにも関わらず、「生」は消滅から逃れられない、いわゆる「生とは死に至る病である(*1)」という解釈である。つまり、生とは祝福されていると同時に呪われてもいるのである。この哲学的とも言える「呪われた生/祝福された生」の思想に対し、作品内で自身の「生の意義」を提示したのがすかぢ氏である。

 「生」とは何だろうか? それに対して「死」とは?
 この2つはどんな意義を持つのだろうか?
 神とは? 世界とは? 自己とは?

 すかぢ氏の作品にはこのような人の根源的な命題をテーマにするものが多く、それが一番の特徴である。氏の作品には独特の主張が見られ、それは他の作家に類を見ないものである。本稿では、そのようなテーマの作品を制作するすかぢ氏はいったいどのような人物であるのか、これまでに氏が世に送り出してきた作品からクリエイターとしての氏を評し、また作品のテーマについて考察する。
 本稿「すかぢ論」は以下のように論を進めていく。

0. 序文
1. 緒言
2. すかぢ氏の作家性について ~多才なクリエイター「すかぢ」~
3. 作品から見るすかぢ氏の変遷
 3.1. 『終ノ空』 ~すかぢ氏のはじまりにして祖~
 3.2. 『二重影』 ~「終」に続くは「対」~
 3.3. 『モエかん』 ~萌えと泣き、一般化を目指した結果は…~
 3.4. 『H2O(*2)』 ~メインライターからサブライターへ~
 3.5. 『しゅぷれ~むキャンディ(*2)』/『テレビの消えた日』 ~プロデューサーとしてのすかぢ氏~
 3.6. 『素晴らしき日々(*2)』 ~すかぢ氏の集大成~
4. 11年にわたる「生の意義」の探求
 4.1. 呪われた生/祝福された生とは
 4.2. 『終ノ空』における「生」~立ち止まる者と立ち止まらない者~
 4.3. 『二重影』における「生」~祈りの強さ~
 4.4. 『モエかん』における「生」~世界の美しさ~
 4.5. 『H2O』における「生」 ~前へ進む強さ~
 4.6. 『素晴らしき日々』における「生」~言葉と旋律~
 4.7. 探求の果てに ~すかぢ氏が辿り着いた結論~
5. 結言

 まず、本章にて本稿の概要を述べた後、2章にてすかぢ氏の作家性についてその才能と特徴を述べる。その後、3章にて氏がこれまで制作してきた作品の解説を行う。4章では、本稿の主題である氏の作品のテーマについて言及する。冒頭で述べた氏の作品全てに通ずるテーマ「生の意義」の思想を中心に、各作品のテーマを考察していく。最後に結言をもって本稿の終了とする。

 
(*1) キルケゴール著『死に至る病』
(*2) 本稿では一部タイトルの副題を省略表記する。
 『H2O -FOOTPRINTS IN THE SAND-』=『H2O』
 『しゅぷれ~むキャンディ ~王道には王道たる理由があるんです!~』=『しゅぷれ~むキャンディ』
 『素晴らしき日々 ~不連続存在~』=『素晴らしき日々』







2. すかぢ氏の作家性について
  ~多才なクリエイター「すかぢ」~



 すかぢ氏の各作品について語る前に、まず氏がどのような人物であるか述べていく。すかぢ氏は美少女ゲームの分野で活躍しているノベルゲームの“クリエイター”である。ここでは“シナリオライター”ではなくあえて“クリエイター”と記述した。それは氏がシナリオ単体だけでなく、原画、彩色、演出、監督などゲーム制作の多くの部分に携わっていることによる。シナリオ以外に監督も務めるシナリオライターというのはたまに見かけるが、それに加えて絵も描けるというのはこのすかぢ氏以外にそうはいない(*3)。言うなればマルチクリエイターである。さらにすかぢ氏は、自身の作品をリリースしているケロQ・枕ブランド(株式会社ムーンフェイズ)の代表(*4)も務めている。上記の役職に加え、会社の代表までをも務めている人物は業界広しと言ってもすかぢ氏くらいだろう。
 実際、ゲーム制作の中ですかぢ氏がどれほどのことをしているか、これまでにケロQ・枕ブランドでリリースされた作品と氏が務めた役職を表1にまとめた。


  


表1より、すかぢ氏がノベルゲームを構成する要素のうちの多くを占めていることがわかる。ただし、シナリオに関してはメインライターを務めていない作品もあり(*8)、原画等のグラフィックも複数人で制作が行われている。それでもほぼ全ての作品の企画・シナリオ・監督を務めているというのはただごとではない。氏の負担はかなり大きいだろう。そのことについて作中で言及されたのが以下のシーンである。


自分で出来るからと言って、全て自分でやってしまう人間はろくな人になりませんよ……
自分で出来る事でもあえて他の人にやらせて様子を見る……これが人としての器ではないでしょうか?
私の知っている方で、シナリオと原画とCGと演出素材から背景まで、自分で出来るからと言う理由で全部やろうとしてしまう方がいますが……
正直人間としてどうしようもないですっ

『素晴らしき日々』 第一章 「Dawn the Rabbit-Hole」


この文章はサブライターの藤倉絢一氏が執筆したものと思われるが(*9)、なかなかのすかぢ氏への皮肉っぷりである。上述のようにすかぢ氏はゲーム制作において様々な仕事を自分でやってしまうことができる。だが、氏がそうすることによってディレクションが疎かになり、進行が遅れてしまうという事実も確かである。それはゲーム制作にかかる作業量が増えた近年の作品の延期状況、制作期間の長大化に現れている(*10)。このようにたいていのことはやってのけるすかぢ氏であるが、いつかエンドクレジットがすかぢオンリーのゲームも見てみたいところである(*11)。
 これまでにケロQ・枕でリリースされたほぼ全作品の監督(プロデュース)を務めているすかぢ氏。氏について記すということはすなわち、氏が代表を務める株式会社ムーンフェイズのケロQ・枕ブランドについて語ることと同義であると言えよう。したがって、本稿では氏がメインライターを務めていない作品についても氏の作品として取り扱う。

 
(*3) 都築真紀氏もこの条件に該当する。
(*4) ケロQブランド発足時(1998年)はすかぢ氏ではなくにのみー隊長氏が有限会社ケロQの代表を務めていたが、『終ノ空』発売後~『二重影』の発売前の間に自身が代表となり、その後株式会社ムーンフェイズを設立した。
(*5) 商業18禁PC美少女ゲームに限る。コンシューマ機器への移植作品、コミックマーケット・ドリームパーティー等でのグッズ販売品、原案・監修を務めた小説・漫画等の作品は除く。2009年に発売された『H2O √after and another Complete Story Edition』については『H2O』『√after and another』に比べて新規要素がほぼ無いのでここでは省略する。
(*6) 表1は各作品のエンドクレジット等による。詳しくは「ケロQ・枕エンドクレジットに見るすかぢ率の高さ-udkの雑記帳- (http://udk.blog91.fc2.com/blog-entry-636.html)」を参照。
(*7) 『テレビの消えた日』についてはエンドクレジットには監督(プロデュース)の項目が記載されていないが、書籍等よりすかぢ氏を中心に制作していたことが見て取れるので、すかぢ氏を監督(プロデュース)とする。
(*8) すかぢ氏がこの11年で原案・メインシナリオ。監督を務めたものは『終ノ空』『二重影』『モエかん』『素晴らしき日々』の4作(ファンディスクの『二重箱』『モエカす』を含めると6作)。原案を務めずサブライター・監督として参加したのが『H2O』『√after and another』『しゅぷれ~むキャンディ』の3作。監督としてのみ参加したのが『テレビの消えた日』である。
(*9)『素晴らしき日々 ~不連続存在~ 特装初回版』(ケロQ,2010年)付属『素晴らしき日々 ~不連続存在~ オフィシャルアートワークス』p.62「すかぢロングインタビュー」より。「Down the Rabbit-Hole」の一巡目、幻想世界のシナリオが藤倉絢一氏と記載。しかし、すかぢ氏が書き直した部分も多いとの記述もあるので、藤倉氏と断定はできない。
(*10) 『サクラノ詩』は2003年に制作が発表されたが、未だに発売されていない。
(*11) どれだけ制作に時間がかかるかはわからないが。








3. 作品から見るすかぢ氏の変遷


 本章では、すかぢ氏がケロQ・枕ブランドで制作してきた作品について解説していく。


3.1. 『終ノ空』 ~すかぢ氏のはじまりにして祖~

 ケロQ処女作、すかぢ氏が初めて制作したノベルゲームがこの『終ノ空』である。ノウハウがほとんどない素人集団(*12)が制作したためにかなり荒削りでシステム等も悪いが、この『終ノ空』はすかぢ作品の中で最も氏の思想が色濃く出ている。特に、氏が最も影響を受けた哲学者「ウィトゲンシュタイン」の思想がよく現れている。
 『終ノ空』は1人の少女の飛び降り自殺から始まる狂気の物語を4人の視点で語っていく群像劇である。異色の作風の物語だったことでブランド処女作ながらも多くの注目を集めた。この作品で興味深いのは2点。ひとつはすかぢ氏自身の思想である。『終ノ空』では氏が当時考えていた多くの思想が断片的に語られている。冒頭でも述べた「生」の思想。他には終末思想、高次の存在、世界論、認識論、自己の定義、不連続存在など様々な思想が語られており、作品内から氏の考え方を読み取れるようになっている。
 もうひとつ興味深いのが読み手によって作品の受け取り方が大きく変わるという点である。万人がいれば万人とも違う感想を抱くのではないだろうか。それはまるで作中で見る終ノ空が人によって異なるものであったように…。本作では多くの思想が提示されているのだが、最終的には全て「語りえぬことには、沈黙せねばならない」に集約される。そのため読み手に考えを委ねる部分が大きく、人によってその受け取り方が変わってくる(*13)。
 すかぢ氏の原点たる『終ノ空』、以降氏は『素晴らしき日々』を書き終えるまでずっとこの『終ノ空』(作品に内在するテーマ)に囚われ続けることになる。


3.2. 『二重影』 ~「終」に続くは「対」~

 「終」に続くは「対」。「終」の『終ノ空』に対して、すかぢ氏第二作は「対」の『二重影』である。世界の終末が描かれた『終ノ空』に対して、この『二重影』ではあらゆるものが対になっている島を舞台に時代活劇が描かれた。氏は作品内に「対」となるものを持ち込んで、その対比からテーマを語ることが多い。『終ノ空』では対立する2人の人物と思想が描かれていたが、『二重影』でもまた同様に、2人の人物(2つの影を有する剣士「二つ影双厳」と影のない「無影」)が描かれている。テーマについても『終ノ空』と同じく、『二重影』でも2人の対比を用いて「生」が語られている。『終ノ空』は氏が好き勝手に自分の思想をぶち込んだ、言わば氏そのものの作品であったが、『二重影』は自身の思想から幾ばくか距離をおき、読みやすく、親しみやすい作品を目指したようである(*14)。事実そのようにエンターテイメント性の高い作品となったが、氏そのものだった『終ノ空』と比べるとその訴求力は落ちる。
 『終ノ空』制作時と比べると、資金・人員的に余裕ができ、自由度が大きくなったのもまた確かで、シナリオ量・原画枚数ともに大きく増え、システムも改善された(*15)。作品の完成度自体もこの『二重影』の方が高いだろう。
 『二重影』発売の1年後、番外編等を収録したファンディスク『二重箱』が発売された。


3.3. 『モエかん』 ~萌えと泣き、一般受けを目指した結果は…~

 『終ノ空』『二重影』と美少女ゲームでは異色な作品を制作してきたすかぢ氏。コアなファンを獲得してきた氏が3作目にしてより多くの人に親しんでもらえるように制作したのがこの『モエかん』である。『モエかん』は当時の主流であった「萌え」「泣き」を目指して作った作品で(*16)、萌えっ娘カンパニー・メイド育成所の所長を務める「神崎貴弘」とそこで働く少女達の交流を描いた物語となっている。萌えゲーや泣きゲーの制作経験がなく、それらからほど遠いものを制作していたスタッフによって作られただけあって、主流の萌えゲーからずれた不思議な作品ができあがってしまった。しかし、氏はこの作品の制作から「萌え」「泣き」というのものを少しずつ掴んでいく(*17)。
 ところが制作は難航を極めた。シナリオの増大に伴う複数ライターでの執筆、きついスケジュールで制作した結果、1つのルートが未完成で終わってしまった。その未完成ルートの救済としてファンディスク内で作り直したのが『モエカす』内に収録されている「Route of Kirisima」である。この『モエカす』で一応の物語のオチはついたものの、ここでもまだ完全に物語を終わらせることができなかった。この制作の不十分さはこれからも続いていく。


3.4. 『H2O』 ~メインライターからサブライターへ~

 『モエかん』発売後に発表された新ブランド枕の立ち上げ及び新ライターによる『サクラノ詩』の制作発表。その『サクラノ詩』は依然制作が難航しており、未だ発売されていない。それに変わって枕ブランドで発売されたのがこの『H2O』である。『H2O』では、田舎の村を舞台に目が見えない少年と少女達との交流が描かれた。この作品では藤倉絢一氏が原案・メインシナリオライターを担当しており、すかぢ氏はそれの補佐にまわっている。はじめてサブのシナリオライターとして制作に関わったすかぢ氏。他者の物語にライターとして参加するということで物語の作り方などそこから得られたものも多かったと言う(*18)。また、この頃には氏のブランドのグラフィック・演出表現はだいぶまとまっている。
 『H2O』発売の1年後、『√after and another』が発売され、『H2O』では不十分だった部分を見事補完することに成功している。この不完全な部分を補完する、または作り直すという流れは、『二重影』に対する『陰と影 ~那月島鬼談~』(*19)、『終ノ空』に対する『素晴らしき日々』の制作に続いていく。


3.5. 『しゅぷれ~むキャンディ』/『テレビの消えた日』 ~プロデューサーとしてのすかぢ氏~

 会社代表として、自身がシナリオライターとしていなくてもゲームが作れる状況を目指していたというすかぢ氏(*20)。この目標もこの時期スタッフの育成が実り、ようやく軌道に乗ってくる。シナリオライターとしてかなりの腕を持つ氏であるが、ライターの育成という点では難しかったようで、10年でものになったのは藤倉絢一氏とあと加えるとすれば柚子璃刃氏くらいだろう。反面、グラフィッカーの育成はうまくいっており、ケロQ・枕ブランドから多くの原画家が生まれている(*21)。
 そしてプロデューサーにまわった『しゅぷれ~むキャンディ』と『テレビの消えた日』ではその責務を全うし、無事発売されている。


3.6. 『素晴らしき日々』 ~すかぢ氏の集大成~

 『モエかん』以降長らくメインライターとして作品に関わっていなかったすかぢ氏。久々の新作は『素晴らしき日々』という『終ノ空』を彷彿させる作品であった。この『素晴らしき日々』は『終ノ空』の設定に、「非連続存在(*22)」という氏が10年来(*23)温めていた企画を合わせたものになっている。
 すかぢ氏の原点である『終ノ空』の焼き直し、これには氏も全力で制作にあたったようで、ほぼ全てのシナリオを1人で執筆している。根幹にあるのは『終ノ空』の思想であり、全作品で問い続けた「生の意義」であるが、『素晴らしき日々』はさらにその先を行っており、『終ノ空』以来ずっと囚われ続けた呪縛をついに解くこととなった。氏の10年の集大成にふさわしい作品となっている。その完成度は驚くほど高い。ケロQ作品はその完成度が毎回悔やまれるものが多いが、この『素晴らしき日々』だけは完全に一個の完成された作品であると言えよう。


(*12) ケロQ設立以前、にのみー隊長氏を中心に「ケロッピーディスク」というサークルで同人活動を行っており、このとき既に簡単なゲームの制作経験はある。
(*13) もっともそれは作品が言葉足らずでわかりにくいというのも否めないが…。『終ノ空』は全編通して「語りえぬことには、沈黙せねばならない」を示した作品である。
(*14) 『終ノ空 CG&原画集』(ケイエスエス,1999年)p.96「終ノ空制作スタッフ特別インタビュー」より
(*15) 他のブランド並みのシステムになるのは『H2O』以降である。
(*16) 『モエかん MOEKKO COMPANY 公式ビジュアルファンブック』(ソフトバンクパブリッシング,2003年)p.120「ロングインタビュー ケロQ社史~モエかんへの道~」より。
(*17) 次作『H2O』ではこの経験を活かし、「萌え」方向に関してもよくできている。
(*18) 『H2O ~FOOTPRINTS IN THE SAND~&√after and another パーフェクトビジュアルブック』(アスキーメディアワークス,2008年)p.145「スタッフインタビュー」より。
(*19) 2005年に『二重影』のリメイク・続編として発表されたが、『素晴らしき日々』の制作に加えて『サクラノ詩』の延期が今もなお続いている状態であるため、2009年開発無期限停止状態となった。
(*20) 『素晴らしき日々 ~不連続存在~ 特装初回版』(ケロQ,2010年)付属『素晴らしき日々 ~不連続存在~ オフィシャルアートワークス』p.71「すかぢロングインタビュー」より。
(*21) 2C=がろあ、硯、月音、籠目、日比野翔,いぬがみきら、梱枝りこ、深森、karory(敬称略)を始めとして多くの原画家が生まれている。
(*22) 「不連続存在」とは存在の連続性(1分前の自分と今の自分が同じであるのか)というテーマを元に、1つの肉体に複数の人格が混在し、その人格が不連続に入れ替わること。
(*23) 『scenario-entertainment AriA【アリア】 VOL.1』(FOX出版,2001年)p.36「脅威のロングインタビュー ケロQ SCA-自」より。『終ノ空』企画時から考えていたとある。







4. 11年にわたる「生の意義」の探求


 本章ではすかぢ氏の各作品におけるテーマ「生の意義」について考察していき、最後に氏の探求の成果について述べる。


4.1. 呪われた生/祝福された生とは

 これまでに終末、時代劇、萌えゲー、不連続性など様々なジャンルの作品を出してきたすかぢ氏。氏が原案・シナリオを務めた作品(*24)にはどの作品でも語られている共通のテーマがある。それは「生」とは何か?何のために「生」は存在しているのかということである。この「生への意義」を語るにあたって、氏は「呪われた生/祝福された生」という言葉をもって作中で「生」の疑問を提示している。

 
生とは死に至る病だ。
生まれるとは、相対的な死を約束される事だ。
生まれてこなければ死は来ない。
無と死は違う。
生があるから、
死はある。
生がなければ死は存在しない。
生とは…死に至る病そのものだ。
だから生まれた子供は、生まれた事を呪っている。
だけど生は祝福もされている。
生きようとする意志。
生を動かすのは、生への祝福と呪われた生。

『終ノ空』最終章


 世界には善と悪があり、幸と不幸がある。しかし、そういうものとは関係なく、世界は在る。神にとっての祝福とは、人間が言う善悪をこえ、存在する全てに等しく与えられる。すなわち、生とは祝福されている=「祝福された生」である。しかしすべての生は、存在しているのに関わらず消滅から逃れられない。「生」とは無価値である。すなわち、生とは呪われている=「呪われた生」でもある(*25)。
 これは、「赤子の誕生」という例を用いて『終ノ空』『素晴らしき日々』では以下のように語られている。

 
神様なんて世界にいない
それどころか、この世界に生まれるのは呪いに似たものだって……
だってさ、死んじゃうんだからさ
どんな幸せも終わる
どんな楽しい時間も終わる
どんなに人を愛しても……どんなに世界を愛しても……
それは終わる
死という名の終止符を打たれて……
だから、この世界に生まれ落ちるって事は呪いに似たものだと思ってた……
だって、幸福は終わりを告げてしまうのだから……
それが原因なのかさ……何度か同じ様な夢見てたんだよ……
そう、夢……赤ちゃんの夢
うん、怖いね……私が泣き出すぐらいに……恐い夢……
生まれたての赤ん坊がいるんだよ……誰が生んだのか知らない……
いや……もしかしたら、私が生んだのかもしれない……
だから、私はうれしかったんだと思う
うん、うれしかった……
それでさ……その赤ん坊は泣くんだね……おぎゃ、おぎゃ、ってさ……
うれしくて、私とかも笑うんだよ……周りのみんなも一緒に……
それは祝福なんだよ
生命に対する……祝福
だってさ、単純にうれしいからさ……赤ちゃんがこの世界に出てきてくれて……ありがとうって……
だから世界は生の祝福で満たされる……
でもさ……でも私は気がついちゃうんだよね……
あ……違うって……
その時、私は一人で恐怖するんだよ……すべての笑顔の中で私だけが恐怖するの……
だってさ……気が付いちゃうんだもん……その子は世界を呪っているんだってさ……
生まれた事を呪っている事に……
みんなの笑顔の中で、私だけ凍り付く……祝福に包まれた世界で……一人……
その時、私は思うんだ……その赤ん坊の泣き声を止めなきゃいけないって……私は、生まれたての赤ん坊の首を絞めて……その人生をそこまでで終わらせなきゃいけないってさ……
だって、生まれるって呪いだもん……
少なくとも生まれたばかりの子供はそう考えている……だから……
その呪われた生を終わらせるために……
でもさ……当たり前だけど……出来ないんだよね
おぎゃ、おぎゃ、って泣いてる赤ん坊の首を締めるなんて出来ないよ……
なんでだろう……赤ん坊は生を呪っているのに……でも私はその生を断ち切る事が出来ない
しなきゃいけないのに……出来ない……
んでさ……私さ、うわん、うわん泣いちゃうんだよ……そんな事現実では全然ないのにさ……
そのうち……赤ん坊の泣き声がね……普通に
普通になってるのに気が付くのね……
普通に……おぎゃ、おぎゃって泣いてるんだよ……
その声を聞きながらさ…私は良かった、と思うんだ……
そして、祈るんだよ……この命に幸いあれ……って

『素晴らしき日々』第六章「JabberwockyII」

 
 この「呪われた生/祝福された生」の思想に対して、すかぢ氏の各作品のキャラクター達はどのようにして「生の意義」を見出していただろうか?


4.2. 『終ノ空』における「生」~立ち止まる者と立ち止まらない者~

 『終ノ空』では、立ち止まる者「水上行人」と立ち止まらない者「間宮卓司」の対比によって「生の意義」が描かれている。どちらも「呪われた生/祝福された生」の思想に対し、それぞれ違う形で対処しようとした。
 「水上行人」は自分の生きる意味/存在の意味について考えるうちに行き詰まるようになる。それを彼は、ただ立ち止まって「生」と「死」を見つめることでその意義を見出した。それに対し「間宮卓司」は、ひとつの事件をきっかけに生の無価値さに気付き、生の意義を「死」に見出そうとする。新興宗教を起こして空に還り(=死)、世界を終わらせて新たな世界へ至ることに意義を見出したのである。


世界は終わらないからこそ、世界の終わりを怖がる。
終わらない事と終わる事は表裏一体。
それは対になってこそ存在を許されている。
俺たちは不条理な生におびえている。
生まれた事を呪っている。
生と死は対になっている。

『終ノ空』第四章


『終ノ空』はこの2人の2つの思想が描かれた物語であった。


4.3. 『二重影』における「生」~祈りの強さ~

 『二重影』でもまたこの思想が語られている。『二重影』では、死を恐れる者「無影」と生を生きようとする者「二つ影双厳」の対比によってそれが描かれている。
 「無影」は、死を恐れ、呪われた二重影の儀式に手を染めて永遠の生を手にしようとする。しかし、自身の失策によってそれは阻まれ、彼は永遠の生を手に入れるどころか死してしまう。それに対し、「二つ影双厳」は二重影の呪いによって生を脅かされるも、その呪いを食い止めながら日々を生きていく。しかし、守ろうとしていた者の死によって、自分を見失ってしまう。そんな双厳を救ったのが「祈り」である。


人の生は呪われ、そして、人の死は祝福される
人はまた生まれた者を祝福して、死んだ者を悲しみます。
すべては無明の中に消えていきます
それでも人は…祈るのです。すべての者のために
すべての死者と生者のために…
目を開けて…祈りは人の希望…信じて…双厳さま…

『二重影』十二日目


人の生は呪われ、そして、人の死は祝福される。しかし、人は「祈り」によって生を祝福し、また死者を弔うことで生への希望を見出すことができる。さらに人を愛することで「生の意義」を得ることができる。この「祈り」によって、「二つ影双厳」は「生」を思い出し、ヒロインを愛する気持ちをもって「生の意義」を手にし、自己を取り戻した。
 『終ノ空』では、立ち止まって見つめる事/立ち止まらず死の先に進む事で「生の意義」を見出した。それに対し、『二重影』では、「祈り」によって生への希望を見出したのである。


4.4. 『モエかん』における「生」~世界の美しさ~

 さらにその先の『モエかん』ではどうだっただろうか。『モエかん』では「冬葉」という少女のシナリオで「生の意義」が描かれている。「冬葉」は自分の能力を使って、人の痛み(不幸)を取り除き、祝福を与えようとする。しかし、痛みというものは善人にも悪人にも存在しているものである。神の祝福は全ての者に与えられるが、その祝福された者も最期には皆死を迎える。「冬葉」はそのことを悟るもなお全てを救おうと全ての痛みを背負ってしまい、無理をして心を壊してしまう。『終ノ空』や『二重影』ではその事実を受け入れる、もしくは別の価値観・目的を見つける事で「生の意義」を見出そうとしたが、『モエかん』では素直に事実を受け入れてしまったがために心を壊してしまう少女が描かれた。
 その少女に対し、どのような解決方法をもって救済したのか。それは「世界の美しさ」「生の美しさ」によって解決された。世界は様々な問題や矛盾を抱えているが、この「世界」そのものは美しく、それは確かに存在している。心を閉ざしてしまった「冬葉」は、「神崎貴弘」の献身的な看病の過程で「世界の美しさ」「生の美しさ」というものを認識し、心を再び開いていく。そうして「生の意義」を見出したのが『モエかん』の冬葉シナリオであった。


4.5. 『H2O』における「生」 ~前へ進む強さ

 このように3つの作品でそれぞれ「生の意義」を問うたすかぢ氏。しかし、以降氏は作品を作る意義を見失う(*26)。それは『終ノ空』の物語上で「幸福」や「恋愛」を否定し、「HAPPY END」の存在すらも否定のスタンスをとっていたことによる。それに「現実がつらいのに、なんで物語の中までつらい思いをしなければならないんだ」というユーザーの意見を受け止め、スランプに陥って自身の物語が書けなくなってしまう。
 それから幾年か経ち、その問題に自身の決着がついて、藤倉氏の作品『H2O』に参加する。藤倉氏はすかぢ氏と違う思想をもっており、それが作品内で神と人の関係を語ったところに表れている。『H2O』では「神は人を祝福している」「つねに人に寄り添って歩いている」という優しい世界が描かれた。そしてそこから「前に一歩踏み出すことの重要性」が描かれ、これまでのすかぢ氏の「呪われた生/祝福された生」の世界とは異なる世界観であった。氏は自身の「生の意義」の決着をつけるべく、前に一歩を踏み出して『素晴らしき日々』を制作する。


4.6. 『素晴らしき日々』における「生」~言葉と旋律~

 『H2O』からいくつかの作品を経て、自らの考えをまとめる作品として執筆したのが、処女作『終ノ空』をもとにした『素晴らしき日々』である。「言葉」と「旋律」がテーマの『素晴らしき日々』では「生の意義」をどのように見出していただろうか。それは「間宮卓司」の肉体に宿る3つの不連続存在によって語られている。「水上由岐」「間宮卓司」「悠木皆守」の3人の人物。このうち、「水上由岐」と「間宮卓司」は『終ノ空』の「立ち止まる者」と「立ち止まらない者」にあたる。そして、「悠木皆守」をもって『終ノ空』では描かなかった第三の思想が描かれている。
 「間宮卓司」は生きる意義を見失い、自分が理想とする人格を生みだしてその人格に全てを任せようとする。ところが、一人の少女の飛び降り自殺を契機に彼は覚醒することになる。母親から教わっていた新興宗教の教義を思い出し、「生の意義」をそこに見出す。そして自らを救世主として宗教を打ち立て、人を空に還す(=死)ことで「呪われた生」から解放されようとする。
 それに対し、「水上由岐」がまず取ったのは、生を見つめる事。見つめることで、「言葉」「美しさ」「祈り」の三つの力から「生の意義」を見出した。


人は死を知らず……にも関わらず人は死を知り、そしてそれが故に幸福の中で溺れる事を覚えた……
絶望とは……幸福の中で溺れる事が出来る人にだけ与えられた特権だな
そうだね……でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた……
空を美しいと感じた……
良き世界になれと祈るようになった……
言葉と美しさと祈り……
三つの力と共に……素晴らしい日々を手にした
人よ、幸福たれ!
幸福に溺れる事なく……この世界に絶望する事なく……
ただ幸福に生きよ、みたいな

『素晴らしき日々』第六章「JabberwockyII」


しかし、由岐はその思想をもったまま死してしまう。
 「悠木皆守」は、その「水上由岐」の思想をもってさらに前へ一歩踏み出す。彼はもともと消滅する人格であった。けれど最後、「水上由岐」に教わった「生の意義」を思い出し、校舎から飛び降りている「間宮卓司」に変わって、生を掴むのである。その後、彼は「素晴らしき日々」を手にする。生を見つめ立ち止まるだけではなく、そこから前に進んだ「悠木皆守」、彼こそすかぢ氏が辿り着いた第三の思想だろう。


4.7. 探求の果てに ~すかぢ氏が辿り着いた結論~

 『終ノ空』では、「呪われた生/祝福された生」から生じる「生への意義」に対して「立ち止まる者」と「立ち止まらない者」の2つの思想が描かれたが、この2つの思想というのはどちらもその根本的な解決方法ではなかった。この『終ノ空』を受けて、『二重影』では、それを乗り越える手段として「祈り」の強さが描かれた。そして『モエかん』では、「世界の美しさ」が描かれた。『素晴らしき日々』では、それに加えて「言葉と旋律」が描かれた。
 そして『素晴らしき日々』では、「言葉」「美しさ」「祈り」、この三つの力をもって「生の意義」を見出した。その「生の意義」とは


幸福に生きよ!

Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『草稿 1916年7月8日』
『素晴らしき日々』第六章「JabberwockyII」


この一文に集約される。「幸福に生きよ!」これこそが、すかぢ氏が最も言いたかったことだろう。言葉にすると簡単なことだが、それをどのようにして実践していくか、作中でキャラクター達がどのようにして幸福を目指して生きようとしていたか、そこから読み取れることは多い。そして、この「幸福に生きよ!」の先にあるのは「素晴らしき日々」である。『素晴らしき日々』の正史からそれた各「HAPPY END」ではキャラクター達が幸福に生き、「素晴らしき日々」を送っている。

 「幸福に生きよ!」、さすれば、「素晴らしき日々」が待っている。

これが氏の11年にわたる「生の意義」の探求で辿り着いた結論だろう。


(*24) 『終ノ空』『二重影』『モエかん』『素晴らしき日々』の4作品。
(*25) 『モエかん MOEKKO COMPANY 公式ビジュアルファンブック』(ソフトバンクパブリッシング,2003年)p.124「ロングインタビュー ケロQ社史~モエかんへの道~」より。「呪われた生/祝福された生」の解説を参考。
(*26) 『素晴らしき日々 ~不連続存在~ 特装初回版』(ケロQ,2010年)付属『素晴らしき日々 ~不連続存在~ オフィシャルアートワークス』p.67「すかぢロングインタビュー」より。







5. 結言


 本稿では、11年にわたる「生の意義」の探求と題して、すかぢ氏の作品と氏が主張する「生の意義」についてまとめた。2章では氏の多才な才能とそれによる制作への影響を述べた。3章では、氏がこれまでに制作してきた作品がどのような意図で作られ、どのような作品であったかを述べた。4章では、氏が11年にわたって作品で語ってきた「生の意義」について述べた。「幸福に生きよ!」、さすれば、「素晴らしき日々」が待っている。これが氏の11年にわたる探求で辿り着いた結論である。
 これまですかぢ氏原案の作品は全て氏の「生」への思想が含まれていた。『素晴らしき日々』の制作によってこの思想がひとつの解決を見せた今、今後制作される氏の作品はどのようなものになるのだろうか?「幸福に生きよ!」の先に待っているものは?次に氏がメインライターを務める『サクラノ詩』で描かれる“その先”に注目したい。








 参考:恋愛ゲームシナリオライタ論集30人30説 あとがき#2 by すかぢ論論者 udk
    :エロゲーシナリオライタ論集1人×1オナヌー 「すかぢ論」 すかぢ作品に見る男性器の象徴
    :カテゴリ -素晴らしき日々-(udkの雑記帳)
    :『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』掲載原稿リンク集







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[2012.07.19(Thu) 00:45] ノベルゲーコラムTrackback(0) | Comments(1) 見る▼
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by いずみ
素晴らしい考察ですね

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魔法使いの夜 レビュー ~最高級の贅沢作品~ 

2012年04月16日 ()

魔法使いの夜 初回版 タイトル        魔法使いの夜
 メーカー        TYPE-MOON
 発売日        2012年4月12日
 プロデューサー   武内友崇
 総作画監督     こやまひろかず
 演出/スクリプト  つくりものじ
 シナリオ/総監督  奈須きのこ
 プレイ時期       2012年4月
 プレイ時間       約20時間
 評点           85



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 TYPE-MOON久々の完全新作、その新作は過去の三大作品(『空の境界』『月姫』『Fate』)と世界観を同じくするも、その世界の広げ方、物語の方向性は大きく違っていた。その方向性で見られたのは、今までと違う少年少女の物語、そして物語をより丁寧に見せることだった。語る内容を絞りそれを語りきること、物語を最大限に演出すること、本作『魔法使いの夜』はそうした作品だった。
 以下にそれぞれの要素の所感を記していく。



1/ 世界観の拡充

 世界観はいつもの奈須きのこワールド。魔術やら魔法やらの細かい蘊蓄(世界設定)があってそれらを惜しむことなく語っていくスタイルはお馴染みのもので、好きな人には相変わらずのものだろう。魔術だ魔法だの設定は聞いてるだけで楽しくなるし、有珠のプロイはどんなものが出てくるのかと心躍るものがあった。
 だが、過去三作が、設定が明かされより世界が広がっていく話だったのに対し、本作は逆に世界のつじつまをあわせるように設定の隙間を埋めていく、世界が確定されていく話であった。設定の広がりを期待するワクワク感よりも、それらが埋まっていく充足感の方が大きかったように思う。登場人物のうちメインの2人(蒼崎姉妹)は過去三作に登場する人物である。本作はこの2人の過去話であるが故に新しい世界を創ることではなく、2人の過去を埋めていく物語となってしまったのだ。シェアワールドを展開する上では致し方ないが、過去作で感じた「ワクワク感」が減ったのは大きな変化だ。
 この『魔法使いの夜』を読んでいて一番近いと思ったのは『空の境界』である。蒼崎橙子と関わり合いが深いからか、根源・魔法の設定がそう感じさせるのか、はたまた時代の雰囲気が近いからか、何かわからないがそう感じた。



2/ 物語の方向性

 幾人もの登場人物の物語が描かれた長大な過去作と比べると、本作は限られた登場人物の物語のみが描かれた小規模な作品となっている。章ごとに主題となる人物の物語も描かれた『空の境界』、ヒロインごとに異なるルートがあり、それぞれ別の物語が描かれた『月姫』『Fate』、それに対し本作は「蒼崎青子」「静希草十郎」の物語となっている(加えるなら「久遠寺有珠」「蒼崎橙子」)。このスケールの小ささが物語を読み終わった後の達成感につながらなかったのは確かで、長大で重厚な物語にあったおもしろさは薄くなってしまっている。
 しかし、本作の目指すところは長大な物語ではなく、ひとつの物語を描ききることであったのではないだろうか。



3/ ひとつの物語を丁寧に作り上げること~少年と少女の物語~

 『魔法使いの夜』の物語はいたってシンプルだ。2人の少女が1人の少年を受け入れる話と言ったら良いだろうか。それにプラスして付け加えるとすれば少年を受け入れる中での少女の変容、少女が魔法使いになった夜の話、だろうか。骨子はそれだけである。魔術師が登場して戦ったりもするがそれは見せ場としてのものに留まっている。戦いの末に何かを見出していた過去作と比べてシナリオの毛色が大きく変わっていた。
 シナリオとしては蒼崎青子と久遠寺有珠が静希草十郎を屋敷の住人として認めるまでの話。さらに魔法使いの基礎音律の「はちみつを巡る冒険」を読むと、本作が恋物語のスタートとも感じられる。恋物語としては、いきなり女の娘を十七分割したり、女の娘と魔力供給したり、二重人格云々の作品と比べるとストレートなものになっているだろう。はじめは目撃者を抹殺することしか考えていなかった少女が少年との生活を通じて徐々に態度が柔らかくなっていく様子はとても微笑ましい。殺害から共闘に変わった遊園地、それからの共同生活で少年の人の良さを知っていく少女、最後には少年のために魔法使いとなっていく少女の心情の変容は、本作で丁寧に描かれていた部分だ。最後の書庫での一幕はわかっていてもニヤリとしてしまう。



4/ ひとつの物語を丁寧に作り上げること~最高の贅沢ゲームたる演出~

 これまでのTYPE-MOON作品は奈須きのこの作品と言ってしまってもいいほど、作品の奈須きのこの占める割合は多かった。絵や音楽、演出の割合もある程度あるのだが、それでも奈須きのこの文章と世界に比べると存在感は薄い。それが『魔法使いの夜』では奈須きのこと演出のつくりものじの作品となっていた。演出の存在感がとてつもなく大きく、演出家の作品とも言ってしまいたくなるレベルの存在感だった。演出家が変わればおそらく全くと言っていいほどの別作品になっていたことだろう。エンディングのクレジットで一番最後の「総監督 奈須きのこ」の前に表示されるのが「演出・スクリプト つくりものじ」になっていることからも、演出家が作品制作の中でとても重要な位置にあることを示している。
 本作は今のノベルゲームで演出家がやりたいことをやりきった作品ではないかと思う。開発で使える素材の量や開発期間は他作品の何倍もあったことだろう。実際はもっとやりたいことがあっただろうが、少なくともこれならば妥協できるというレベルであったことに間違いはないだろう。演出の限界までこだわりぬいた作品であることは見るからに明らかだ。
 そうして出来上がった本作の演出がどうだったか、簡単に所感を述べる。

(1)演出対象は全てのシーン
 本作の演出のすごいところは、全てのシーンに演出意図があるところである。テキストが表示され、次のテキストを読もうとワンクリックする毎に画面が少し切り替わり、1ページ分のまとまった文章が表示されたら、画面が大きく切り替わる。一文のテキストに対してひとつのカットを作るという恐ろしく手間のかかることをやってのけているのだ。カットを作るだけでなく、それらのカットにさらにいくつものエフェクトもかけており、その手間は計り知れない。
 全ての文章に対して最適な画面演出を付け加えていく、それは理想ではあるが分量故に難しい。なのに本作ではそれを実践し、それ演出が作品のクオリティを大きく上げている。
 全てが演出家の意図のもと、計算しつくした演出になっていること、そこが本作の最大の強みである。

(2)視覚的に情景を伝えること
 全てのシーンが演出対象となっている本作では、その手段として読み手に視覚的に情報を伝える表現が頻繁にとられている。200枚超の一枚絵もその手段のひとつではあるのだが、本作の視覚的表現の最たるものは汎用絵の組み合わせである。ここでいう汎用絵とは何も立ち絵や背景絵に限ったものではなく、ちょっとした背景の小物や効果素材の組み合わせが頻繁に行われ、一枚絵もかくやという情景が生み出されていく。100枚超の背景絵と汎用絵で作られる情景は一枚絵と区別することが難しいレベルまで高められている。

(3)ギャグ演出の強化
 本作のギャグ要素はそのほとんどがテキストではなく、視覚的な演出動作によって行われている。ちょっとしたギャグ演出は見事である。奈須きのこの文章は「笑い」という部分ではあまりうまくないが、つくりものじの演出によって「笑い」のシーンがより良いものとなっているのは確かだろう。この演出が間違いなく機能していると言えるのはここ。たぶん演出無しでは寒いシーンが続いていたことだろう。

(4)戦闘シーンの視覚的盛り上げ
 TYPE-MOONの新伝綺作品にとって重要なのが戦闘シーン。これを如何に盛り上げるかによって読み手の印象は変わってくる。
 伝綺バトルものでは文章による設定の語りが非常に重要なものであると私は考えている。文章で事細やかにその能力設定やすごさを記せることは映像媒体にはない利点だ。しかし、文章だけではその情景を鮮明に記すことは難しく、視覚的に表現する方が情景を示すには容易でかつ盛り上がるだろう。文章で戦闘を綴りながら絵と画面演出で情景を補い視覚的に盛り上げていく、ノベルゲームの戦闘演出の利点を本作では最大限に活用していた。5章の遊園地での一戦は本作の演出が最大限にその成果を発揮した場面だろう。



/4 最高級の贅沢作品

 最後にこれらの演出がどうだったか、そして『魔法使いの夜』がどうだったか、本編の言葉を借りて私見を述べると……

「有珠は手間をかけすぎ。私、贅沢は好きだけど、贅沢に慣れるのはご免だから」
 有珠に反論しつつも、これまた上機嫌な青子がいる。


 本作は演出の手間をかけすぎて制作期間が1年以上延びている。潤沢な予算と開発期間は制作側にとって贅沢そのもの。そして、それらによって実現する演出もそうであることに変わりはない。
 普段プレイしているノベルゲームでは本作のようなレベルの演出を見ることはできず、本作に慣れてしまうとその後のゲームに支障をきたしてしまいそうだ。そして長い制作期間にも慣れてしまいそうだ。贅沢はよくない。

 けれど、本作の良いものを創ろうとする制作姿勢はとても好感が持てる。たったひとつの物語を最高のクオリティで描ききること。最高級の作品を読み終えた今、私は上機嫌だ。
 ひとつの物語を最上級に丁寧に仕上げること、こんな手間暇かけた作品を作れるのは一度きりだろうが、叶うことならもう一度見てみたい。





 参考:企画・シナリオ・原画に演出が並ぶ時代
     魔法使いの夜 体験版 感想 ~最高の贅沢ゲームになりそう~




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[2012.04.16(Mon) 21:30] 魔法使いの夜Trackback(0) | Comments(3) 見る▼
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なるほど by mikisp1
私も昨日このゲームをクリアしました。
なかなかの面白さでしたけど、2年ほどの延期を経たにしては、シナリオボリュームの薄さが気になりました。
『あれ?もう終わり?』
終わったときにはそんな感じでしたね。


by 神奈みずき
>設定の広がりを期待するワクワク感よりも、それらが埋まっていく充足感の方が大きかったように思う。
まさにその通りだなと思いました。このゲームは個人的にそれに尽きる気がします。
戦闘シーンも過去どの作品よりも少ないしカッコいい発言もあまりなかったけれど。
今まで月姫やメルブラで見てきた青子というキャラが見れた、それだけで満足してしまいました。

私は長さ的にはむしろ日常シーンにまで盛り込まれた演出の事もあって、思ったよりも長いなと感じました。逆にとっとと読ませろじれったいと思う事もありましたが。

最後に思ったのが、18禁じゃなくてよかったなと……。

うーん by -
いままでの作品と違い、圧倒的に
説明不足な内容でした。
とりあえず、15歳から魔術師になったわりには
あまりにも橙子さんに対して軽薄ですよね・・
と、いうか姉妹で殺しあうことに迷いがなさすぎてw

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魔法使いの夜 読了に際して 

2012年04月16日 ()

 『魔法使いの夜』、読み終わりました。
 久々のTYPE-MOON新作、体験版の時に演出でひとり盛り上がっていた私ですが、期待通りの出来で安心しました。期待以上といかなかっったのが残念でしたが、ひとつの物語としてはこれで十分でしょう。



 思えばTYPE-MOONは私の中でいろいろ思い入れのあるブランドでして……魔法使いの夜も読み終わったことですしせっかくなので、今回はちょっと昔の話をしてみようかと思います。


 私は今でこそ、100作以上のノベルゲームをやっていますが、当然昔はそれほどやっていませんでした。もう何年も前、私の若かりし頃、ノベルゲームと出会ってから間もない頃の話です。私ははじめてやったノベルゲームがエロゲー(エロエロなゲーム、いわゆる抜きゲー)でして、しばらくエロいゲームばかりやっていました。そんな頃出会ったのが知人に勧められたTYPE-MOONの同人ゲーム『月姫』です。それまで「エロいけど話はいまいち」と思ってたノベルゲームに「話がおもしろい」ものに出会ってそのシナリオに感動します。で、月姫に大はまりするわけです。それからというもの他にシナリオがいいゲームはないかと、ネットでシナリオの評判のいいゲームを探しては気になったものをやっていく日々が続き、それでいつの間にか気づいたら今のようにノベルゲームばかりやっている自分になっていました。
 それから『月姫』だけではなく、『空の境界』も『Fate』にもはまって立派な型月信者・月厨になっていました。私は鍵でも葉でもなく、月だったのです。

 何年もノベルゲームをやっている人は、その程度の多かれ少なかれはあるにしろ、何かしらやり続けているきっかけとなった作品はあるかと思います。私の場合、『月姫』がノベルゲームにはまりこむきっかけとなった作品でした。結果、何千時間、下手をしたら万単位の時間をノベルゲーム関係に費やしているわけですから、結構業の深い作品です。
 しかし、2005年の『Fate/hollow atarxia』以来、新作のゲームが出なくて寂しい想いが続きます。
 


 とまあ、私にとってのTYPE-MOONはこんな感じです。別にたいした話でもなんでもなく、ひとりの青年の方向性が決まっただけの話です。人生が変わったと言うと大げさですが、型月は私にとってそれなりの影響はあったかと思います。
 それから7年が経ち、今に至ります。


 長くひとつのジャンルに居着いていると、当然期待作というものが出てきます。
 私にはこれが出るまではノベルゲームをやめることはないだろう的な作品がまだふたつ残っていて、それが……『魔法使いの夜』と『サクラノ詩』です。どちらも制作の発表時期は随分前で、制作しているという話は聞くもののいつまで経っても発売されない/なかった作品です。昔はこれ以外にもいくつかあったような気がしますが、今やこのふたつだけ(※1)です。

 今回、そのふたつのうちの『魔法使いの夜』が発売されて、「ああ、とうとう出たんだなぁ」と感慨にふけっています。またひとつ未練が減りました。
 そして、一昨日、『魔法使いの夜』を読み終えました。『魔法使いの夜』をやって過去作とは違うのを感じ、7年という月日でいろいろも変わったとそんなことを思いました。ちょうど『魔法使いの夜』で時代の移り変わりについて書かれてあるシナリオがあったのもあって余計そんなことを……。


 『魔法使いの夜』がどうだったかは次のレビュー記事にて。
 何年経っても型月好きなのは変わってなかったなぁ。




※1:まだこの先には月姫リメイクとか陰と影とか控えてますけど、他にもGard……なんてものもありますけど、まあそれはおいておいて……



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[2012.04.16(Mon) 21:15] 魔法使いの夜Trackback(0) | Comments(0) 見る▼
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恋色空模様 演出考 ~脱紙芝居。紙芝居から人形劇へ。演劇的立ち絵表現の追求~ 

2012年04月11日 ()


恋色空模様 Amazonのページへ
タイトル     恋色空模様
メーカー     すたじお緑茶
発売日     2010年3月26日
演出       亞部まとま , 秋山構平 , らんど
プログラム   秋山構平
ディレクター  亞部まとま



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◆脱紙芝居、紙芝居から人形劇へ

 ノベルゲームのことを“紙芝居”とはよく言ったもので、画面上の絵の移り変わりが少なく、坦々と文字を読み進めていく様は的を得ているでしょう。背景絵にキャラクターの立ち絵(もしくは一枚絵)だけを表示させて場の情景を提示し、他は文章で語るスタイルは、絵を一枚見せてあとは語りで補っていく紙芝居とよく似ています。
 そんな紙芝居という俗称を持つノベルゲームですが、本作『恋色空模様』は従来の紙芝居ゲームからは一歩と言わず二歩も三歩も進んだ“脱紙芝居”ゲームとなっています。
 キャラクターが何かしゃべる度に画面上の立ち絵が切り替わり、そして場面の情景やキャラクターの動作に関してはテキストや一枚絵を使わず極力立ち絵の配置と動きで表現するスタイル。その演出スタイル自体は他のノベルゲームでも試みられてきましたが、本作が他のノベルゲームと一線を画する所は“立ち絵の配置”と“立ち絵の動き”の自由度の高さです。立ち絵の配置を工夫することによって一枚絵さながらの特殊な構図を生み出し、画面上を所狭しと立ち絵が動き回る様は言うなれば“人形劇”。立ち絵という人形を使って演劇を行っている『恋色空模様』にはぴったりです。



◆演劇的立ち絵表現の追求(1)立ち絵配置による舞台形成

 画面内のどんな場所にも自由自在に立ち絵を表示できる技術、それは従来の多くのノベルゲームで独立して存在していた立ち絵と背景を組み合わせることが可能になり、新しい意味を創造できるようになります。そうしてできるのが背景と立ち絵を組み合わせた新しい構図。従来の立ち絵演出では難しかった一枚絵さながらの特殊な構図を生み出すことが可能になります。
 それは人形劇(演劇)における、舞台と人形(役者)の役割に似ています。人形劇で言う舞台はノベルゲームにおける背景であり、人形はノベルゲームにおける立ち絵に置き換えることが出来ます。演劇が舞台の中で役者を自由に配置させることが出来るように、本作の立ち絵もまた背景中の好きな位置に配置させることが出来ます。ただ背景中の好きな位置に配置するだけでなく、立ち絵を拡大縮小したり、背景の小道具をレイヤーとして捉えることによって、空間の中でどこにいるのか奥行きまで演出できていました。

 立ち絵配置による舞台形成について詳しくは以下の記事にて
 ●立ち絵が座る瞬間 ~立ち絵演出考察(1)立ち絵配置による舞台形成~



◆演劇的立ち絵表現の追求(2)立ち絵による運動表現

 配置が自由に出来るだけではまだまだ劇というには届きません。劇には”動き”があります。その”動き”までをも本作は表現しようとします。しかも”動き”を表現するのはアニメーションではなく、あくまで立ち絵で。
 立ち絵配置による舞台形成によって自由に立ち絵を配置させることが出来るのなら、あとはそれをつないでいけば動きの過程も表現が可能。立ち絵を右に左に、前へ後ろへ、拡大縮小し、動かすことでキャラクターの動きを表現することに成功しています。舞台形成や動きを補うのがいくつもある立ち絵の差分で立ち絵のポーズ差分・表情差分は一般的なゲームのそれを大きく上回ります。
 こうして歩くことも走ることも、騎馬戦だって剣の試合だって、様々な表現が可能になります。動きとしてはまだまだぎこちないところも多いですが、それが何をしているのかは十分伝わりました。
 このようにして、立ち絵による舞台形成に動きの要素が加わることで表現の幅は格段に上がっていました。もう舞台内を自由に動き回れる人形劇と大差ないでしょう。

 立ち絵による運動表現について詳しくは以下の記事にて
 ●参考;立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~



◆演劇的立ち絵表現への追従 可変型テキストウィンドウ

 演劇的立ち絵表現へ追従するのが、可変型テキストウィンドウです。立ち絵によって形成された舞台や運動表現をテキストで邪魔せず見せるようにとテキストウィンドウもそれに準じて位置と大きさを自由に設定できる可変型を採用しています。多人数の会話や同時発言もこのテキストウィンドウによって簡単に表現できています。

 可変型テキストウィンドウについて詳しくは以下の記事にて
 ●参考:テキストウィンドウ考察(1)可変型テキストウィンドウの可能性



◆演劇的表現の複合による相乗効果

 本作の演劇的表現を追求する姿勢として、(1)立ち絵の配置(2)立ち絵の動き(3)テキストウィンドウ、の3つの特徴的な表現をあげました。これらは、誰が、どこで、何をして、何をしゃべっているか、ということに対応します。これらの表現により視覚的な表現が可能になる場面が増えました。
 そしてこれらの表現が複合的に組み合わさることによって、それぞれの表現がより一層活かされていきます。可変型ウィンドウによってウインドウ位置を自由に動かせるので、立ち絵をより自由に配置し、動かすことができます。そして、立ち絵での表現が増えることで地の文を減らし、会話文を主体にでき、可変型テキストウィンドウの利点を引き出す形になります。テキストでわかりにくい表現を立ち絵で表現していく、立ち絵で補える表現は立ち絵に置き換えていく、それが本作の姿勢でした。そうすることで特定のシーンだけでなく、ほぼ全編通して、立ち絵による舞台形成と立ち絵の動きによる運動表現を実施できたのはひとつの達成です。
 本作はゲームの演出デザインの方向性をうまく組み合わせ、演劇的表現をより確固たるものにしていました。



◆演劇的表現の作品への作用

 このように表現方法として演劇的表現を使用するための技術的条件が整いました。
 さて、これらの演出表現が作品にどう作用していたでしょうか。

 本作のシナリオ構成は3部にわけられます。仲間達と賑やかな学園生活を過ごす第一部、仲間達と協力して廃校問題を解決する第二部、ヒロインといちゃいちゃする第三部の三部構成です。この“仲間達と”の部分が本作の演出がうまく作用していたところです。
 画面中に何人もの立ち絵を配置して形成される舞台は、何人もの仲間と過ごしている日常を、仲間達が確かにそこにいるということを実感させます。第二部の神那島クルセイダーズで10人以上の仲間と協力して問題を解決していった際に、主人公の側に供にいる仲間達がいる情景を描くことができたのは大きな意味を持っていたことでしょう。
 そして立ち絵の動きは仲間達との賑やかな日常を演出します。立ち絵の配置で場を作り、それを積極的に動かすことで楽しげな空間を生成します。可変型テキストウィンドウが見せる多人数でしゃべる光景も、何人もの仲間達との会話を盛り上げていました。
 本作は、多くの登場キャラクターを出し、それらのキャラクターと楽しい日常生活を送り、困難に立ち向かうシナリオを表現するための手段として演出がうまく作用していました。



◆演出姿勢と今後の展望

 本作で見られたどんなものでも立ち絵で表現しようとする姿勢、確かにそれはこれまで述べてきたように上手く作用していました。ですが、それがいつ時でも作品にとって本当に素晴らしかったものかというとそれは違います。なんでも立ち絵で表現するというのは、それが必ずしも最良の結果であるとは限りません。
 本作では行き過ぎた演出がいくつも見受けられました。立ち絵で表現していて確かに凄い、だけど、その表現の中にはそれを是としがたいものも多くありました。あまりの出来に苦笑が浮かんだり、シリアスなシーンで醒めてしまうものなど、演出が足を引っ張っているものもありました。無理矢理ちゃぶ台のまわりに10人も座らせたり、道を走らせたりするのはその良い例です。
 時には足を止め、考えることも必要ではないでしょうか。ある表現に関して立ち絵で表現可能かどうか制作現場内でやってみるのはとても良いことです。しかし、その結果生まれた表現が果たしてその場に即しているか、もっと検証を重ねていかなければならないのでしょうか。もしその演出表現が場にふさわしくないのであれば、よりふさわしく見える表現を開発するもしくは別の代替表現に変えるというのも考えていかなければならないのでしょうか。立ち絵で表現するかテキストで表現するか、それとも一枚絵や別の方法で表現するか、その時々に最適な表現というものがあるはずです。必ずしも立ち絵で表現する必要はないはずです。本作は技術先行と見られる表現が多々見られました。
 
 本作を見る限り、立ち絵を使った表現に関しては他のブランドには無い独自性を持っています。本演出考の前半でも示しましたが、表現の幅という観点で見ると本作がとても広いものを持っているのがわかります。ですが、その幅広い表現が可能であるからこそより表現の選択が必要になってくるのではないでしょうか。

 それができたら立ち絵の変化に溢れた最高の人形劇作品ができあがるでしょう……いや、そうなるともはや人形劇と言うには失礼かもしれません。本物の人形劇とは一味違うゲーム媒体独自の表現をふんだんに使った作品がそこにはできあがることでしょう。







 参考
 ●立ち絵が座る瞬間 ~立ち絵演出考察(1)立ち絵配置による舞台形成~
 ●参考;立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~
 ●参考:テキストウィンドウ考察(1)可変型テキストウィンドウの可能性





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[2012.04.11(Wed) 23:17] ノベルゲーコラムTrackback(0) | Comments(1) 見る▼
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ノベルゲーの拡張 by 近代衣服の残響
一連の考察、興味深く拝読しました。

ノベルゲーは、もはや「ゲーム」ではないのかもしれない、と、当方は以前から思うようになりました。
じゃなにか、というと、映画や小説のような、「メディア=容れ物」じゃないか、と。
無理にゲーム性云々に拘って(例えばクリックという行為がゲーム性である、みたいな言説、というか言い訳)「ゲーム」であろうとするよりは、「紙芝居」である、と割り切って、ならばこれは「新たな物語の展開形式」とみなした方がすっきりするのではないか、と。散々言いつくされたことかもしれませんが。

そこで、今回の考察を読んで、じゃあノベルゲー/紙芝居/人形劇はどこに該当するのか、というと、小説・映画・舞台・漫画、といったもの(アニメはまだ遠いように思えます)の中間地点にあるメディア、だと思いました。
それを活かすか、自覚することなく殺すかは、この先のクリエイターによるところだと思いますが、しかし今回のudkさんの考察は、「ノベルゲーに何が出来るのか」の再確認と言う意味で、興味深かったです。(これは以前のedenの一枚絵オンリー構成/演出とリンクする部分がある、とも感じました)

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テキストウィンドウ考察(1)可変型テキストウィンドウの可能性 

2012年04月10日 ()

◆可変型テキストウィンドウについて


 ノベルゲームのテキスト表示方法というと全画面表示型とテキストウインドウ型のふたつに大きく分かれます。


 優しさと半分の精子で出来てる論
  ↑ 全画面表示型

 お、ナヌー
  ↑ テキストウィンドウ型



 このうち、テキストウィンドウ型は上の画像のようにウインドウの位置と大きさが決まっている固定型が多いのですが、それとは別にウィンドウ位置と大きさが定まっていない可変型があります。



 可変ウィンドウ_かみのゆ

 可変型テキストウィンドウ_鬼ごっこ


 この可変型のテキストウィンドウですが、固定型にはないおもしろさがあります。今回はその可変型テキストウィンドウ(※1)について固定型と比較しながら考察していきます。

 可変型テキストウィンドウもいろいろ種類があって、全種類を網羅して検討していくのはとてもじゃなく面倒なので今回は『恋色空模様』のタイプを中心に話を進めていきます。このエントリーを立てたのもこの次の演出考のためなのでわりきっていきます。ノベルゲームにどんなウィンドウがあるのかについてはこちらをどうぞ。


 恋色空模様の可変型テキストウィンドウの紹介をしていきます

 
 この可変型テキストウィンドウ、一番の目立つのはウィンドウ位置が一箇所に固定されていないところです。画面下部に固定されているタイプのものと違い、画面上の好きな位置に表示することができます。でもいくら自由な位置に配置できるからといって好き勝手やるとさすがに読み手の方がしんどいので、発言者の近くにテキストウィンドウが表示されるようになっています。
 主人公の場合だけ特別で、これは作品によって違うので一概には言えませんが(※2)、『恋色空模様』の場合だと主人公の発言や考えていることは他のキャラクターがいない場所(主に画面中央)に表示されます。他のキャラクターの発言とちょっと区別しにくいところです。


 どういうことをするんでしょうね
  ↑ 主人公の発言


 ウィンドウのサイズは自由に設定可能で、文字数に応じて広くすることも狭くすることも可能です。
 ざっとこの辺が可変型テキストウィンドウの主な仕様です。



続きを読む↓


◆可変型テキストウィンドウの特徴


 では次に、この可変型テキストウィンドウを採用することで、どのようなことが可能になるのか、それとは逆に不利になったことは何か考えていきましょう。(1)会話表現(2)可読性(3)画面構成、3つの観点から話を進めていきます。


(1)会話表現

 可変型ウィンドウの良いところは会話表現が豊かになるところです。誰がしゃべってるのか判別できるということで、多重発言が容易だったりします。またテキストウィンドウを使った視覚表現ができるというのも良いところです。以下に例を3つあげます。


(a)誰がしゃべっているのかわかりやすい

 誰がしゃべっているのかというのをテキストウィンドウの位置で示すことが出来ます。
 複数のキャラクターが乱立している時はちょっとしんどいですが、こんなことも可能だということで。
 難があるとすれば主人公の発言だけちょっとわかりにくいところでしょうか。
 ※恋色空模様の場合、加えてキャラクター毎にテキストに色を割り振って誰がしゃべっているかを補っています。


 怖い表情をしている美琴の横で平気な顔をしている子はいったい……



(b)多重発言

 固定型と可変型に大きな違いが出る表現と言うと、この多重発言です。
 固定型の場合、一度に複数のキャラクターの発言を表示させようとすると、誰がしゃべっているか表示する必要があるのでややわかりにくいです。
 可変型の場合、いくつもテキストウィンドウを表示させられるので、同時複数の発言も簡単に表現することが出来ます。


 立ち絵が座る瞬間

 一度に大勢の発言が出るとちょっと怖い

 9人からのダメだし
  ↑ フェイスウィンドウと組み合わせたりも(一種のギャグ表現)




(c)発言者の位置

 キャラクターがどこにいるのかもテキストボックスを使って表現することが出来ます。


 恋色空模様_発言者の位置01
 恋色空模様_発言者の位置02
  ↑ 男二人は女の娘にやられて足許で這いつくばっています



(2)可読性

 可読性という点では固定型に劣ります。可変型の場合テキストウィンドウがあっちこっちに移動するので、その都度追っていくのは少々疲れます。慣れればどうということはないんですけど、はじめはちょっとしんどいですね。そういうわけで速読もちょっとやりにくいです。
 また、長文に不向きなのもあります。ウィンドウサイズがその時々で変わって改行の位置が安定してないので長文が少々読みにくいです。会話文が主体の見せ方になるので、地の文が多いとしんどいでしょうか。


 いから3Pに持ち込めと……
  ↑ わざと地の文を長文にしているネタ



(3)画面構成

 可変型だと自由な枠組みが可能になります(※3)。画面構成を自由に組むことが出来るので、その都度自由な配置が可能になります。
 絵で見せたい部分がある時は、その位置にウィンドウを配置しないようにしたりと。
 固定ウィンドウがないので、開放的に見せることもできます。
 絵を全面的に見せることも可能で、絵を押し出していきたい場合には有効なのではないでしょうか(※4)。
 冒頭にあげた吹き出しのようなテキストウィンドウの場合、吹き出しを画面デザインのひとつとして画面構成を組んでいくことも可能です。


 解説の教頭さん
  ↑ 立ち絵を避けた位置にテキストウィンドウを配置


 

◆恋色空模様と可変型テキストウィンドウ


 今回取り上げている恋色空模様のよくできているところは可変型テキストウィンドウの利点を活かした作りになっているところです。ウィンドウを自由に動かせるので、立ち絵を自由に動かすことができ、立ち絵で表現することで地の文を減らし、会話文を主体とすることに成功しています。ゲームデザインがよくできていました。


 以上、可変型テキストウィンドウの特徴をあげてみました。可変型テキストウィンドウは自由な画面構成を組むことができ、それに多彩な会話表現が加わり固定型とは違う場を生み出すことができます。一方、可読性という点では少々弱くなってしまうということもあります。
 こうのような点を踏まえつつ、どのようなテキスト表示スタイルを目指すかは制作者次第です。
 その選択肢として可変型も場合によっては十分にあり得るのではないでしょうか。











※1:可変型の他に吹き出し型と呼ばれることもあります。
※2:主人公の発言は中央に吹き出しのように出て、地の文は固定型テキストウィンドウ(画面下部)に表示されたり、全画面で表示されたりするタイプのものも有り。
※3:固定型でもやり方によっては構成を自由に組むことも可能なのですが、可変型ほどではないということで。
※4:恋色空模様ビジュアルファンブックより。絵を見せたかったという記述有り。



 参考:立ち絵が座る瞬間 ~立ち絵演出考察(1)立ち絵配置による舞台形成~ -udkの雑記帳-
     立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~
     恋色空模様 演出考 ~脱紙芝居。紙芝居から人形劇へ。演劇的立ち絵表現の追求~-udkの雑記帳-





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[2012.04.10(Tue) 22:57] ノベルゲーコラムTrackback(0) | Comments(0) 見る▼
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立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~ 

2012年04月08日 ()
 

◆立ち絵が走る時


 ノベルゲームではお馴染みの立ち絵ですが、ここで問題です。立ち絵を使って背景の中の道を走らせるにはどうすればいいでしょうか?


 恋色空模様_立ち絵が走る時_00000



 画面上で立ち絵を画面外に動かすことによって走ることを表現することもできますが……



 そこで、アンジェの出番です!アンジェは廊下に飛び出した


 ここでは道の上を走らせることとします。
 アニメーションを使ってもできますが、ここでは立ち絵を使って走る動作を表現することとします。


 答えはこちら↓


続きを読む↓










 恋色空模様_立ち絵が走る時_0001
 恋色空模様_立ち絵が走る時_0002
 恋色空模様_立ち絵が走る時_0003
 恋色空模様_立ち絵が走る時_0006
 恋色空模様_立ち絵が走る時_0008
 恋色空模様_立ち絵が走る時_0011
 恋色空模様_立ち絵が走る時_0013
 恋色空模様_立ち絵が走る時_0015
 恋色空模様_立ち絵が走る時_0016




 はい、走りましたー。
 背景奥(画面左上)から手前に向かって立ち絵が移動していっていることがわかります。画像だけだと動くスピードは伝わりにくいかもしれませんが、ゲーム中では結構早く動いていくので走っているというのがわかります。上の画像は走っている様子を断片的に捉えたものになりますが、実際、ゲーム中ではこれがもっと滑らかに走っています。
 立ち絵だけでこんな風に走る状態を表現できるんですね。ちょっと……いや、かなり無理はありますが、走っているというのは十分に伝わります。


 さて、これを実現するためには技術的にどのようなことが必要になるかというと……前回の記事で紹介した「立ち絵配置による舞台形成」をそのまま使っています(プラスで立ち絵の角度指定技術も追加)。キャラクターが走っている地点ごとに立ち絵で場面を形成し、それをつなぎ合わせて走っている様子を演出しています。さらに、つなぎ合わせる際に立ち絵を少しだけ上下させて走っている様子を表わしています(画像からは伝わりにくいかもしれませんが……)。

 立ち絵の配置+つなぎ合わせの演出、『恋色空模様』ではこのふたつを使って立ち絵で動きを表現することに成功していました。



 恋色空模様_立ち絵の運動10001
 恋色空模様_立ち絵の運動10003
 恋色空模様_立ち絵の運動10004
 恋色空模様_立ち絵の運動10007
 恋色空模様_立ち絵の運動10010
 恋色空模様_立ち絵の運動10013
 恋色空模様_立ち絵の運動10021
 恋色空模様_立ち絵の運動10024
 恋色空模様_立ち絵の運動10027
 恋色空模様_立ち絵の運動10034
 恋色空模様_立ち絵の運動10037
 恋色空模様_立ち絵の運動10039


 ヒロインふたりが戦っているシーンです。時間的にはこの動きにだいたい1秒くらいかけています。竹刀を振りかざす子とそれを避けている子の様子を立ち絵でうまく表現しています。立ち絵を拡大縮小させながらの移動とエフェクトを混ぜ合わせることで戦っている様子を演出しています。これだけの動きを表現するにはスクリプトの調整がかなり大変そうですが、それを難なく実現しています。

 このように走る以外にも立ち絵を使った運動表現をいくつも行っていました。
 


 立ち絵を動かして動きを表現する演出自体は他のブランドでも試みられていますが、この「立ち絵の配置+つなぎ合わせの演出」に関しては『恋色空模様』のすたじお緑茶のレベルは他と比べるとかなり高めです。
 このようにして、立ち絵による舞台形成に動きの要素が加わることで表現の幅は格段に上がりました。
 以前より広がった動きの演出で生み出される新しい表現に期待していきたいところです。








◆テキストに取って代わっていく立ち絵 -文章から脚本へ-


 さてこの記事とひとつ前の記事で恋色空模様では立ち絵で様々な表現が行われていることを示しましたが、これによって影響を受ける要素があります。そのひとつがテキストです(※1)。
 立ち絵の配置と立ち絵の動きの演出で表現される前、もともとはテキストがそれらの情報を読み手に伝達する役割を担っていました。キャラクターがどこにいて何をしているかはテキストで表現していたわけです。それが立ち絵で表現されるようになると、当然テキストの該当する描写は削除されます。これは何も恋色空模様に限った話ではなく、立ち絵や一枚絵などの絵による演出が盛んなノベルゲームのほとんどがあてはまります。テキストを絵の表現に置き換えていく流れはそうした作品の中で存在しています(もしくは音声演出によって音(声,SE)に置き換えていくという流れも)。地の文がどんどん減っていてほとんどが会話になっている感じですね。
 
 極論ですが、文章(テキスト)に絵と音がついてできあがっていた昔(※2)と比べると、今は脚本(テキスト)と絵と音があってできあがっているとでも言いましょうか。小説のような「文章」というよりも映像分野のような「脚本」になっています。もともとゲーム内のテキストは全て文章ではなくて脚本だとも言えるんですけど、テキストによる表現が取って変わっていっているのを見るとそう表現したくなります。

 別にテキスト表現が減っていって寂しいとかそういうわけではなくて、テキストでしか表現できなかったものが絵で表現できるようになってきたなぁと。
 表現の選択肢が増えて、いろんなことができるようになりました。
 ゲーム媒体は表現の多様性という意味では広いので、その場その場で最適な表現を目指して欲しいですね。









※1:立ち絵演出重視のノベルゲームではテキストとは別に一枚絵に立ち絵が取って代わっている傾向も少しばかりありますが、それはまた別のエントリーで。
※2:ノベルゲームにおいて今よりもテキストが中心だった時代(10年以上前)。



 参考:立ち絵が座る瞬間 ~立ち絵演出考察(1)立ち絵配置による舞台形成~ -udkの雑記帳-
    テキストウィンドウ考察(1)可変型テキストウィンドウの可能性 -udkの雑記帳-
    恋色空模様 演出考 ~脱紙芝居。紙芝居から人形劇へ。演劇的立ち絵表現の追求~-udkの雑記帳-
    演出論的覚書:Ⅰ章2節:すたじお緑茶の立ち絵演出 -cactus backyard- 




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[2012.04.08(Sun) 19:17] ノベルゲーコラムTrackback(0) | Comments(3) 見る▼
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汎用絵 by 近代衣服の残響
twitterで仰っていたこの言葉、このブログを通して、「うむ、確かに、こと今に至っては、その方が妥当なのかもしれない」と思いました。

「立ち絵」には「棒立ち」のニュアンスがあったと思います。昔から。
それは差分が今ほどではなかった時代ゆえのことなのですが(つまりはリソースの問題)、こうも演出が変わってくると、ただヌボーっと突っ立って漫才させるだけ、では収まらない……とつくづく思いました。

どこが「後ろ姿立ち絵」のはじめだったでしょうか……(一般的にはぱれっとが始祖、と言われてますが)そのあたりから、紙芝居ノベルゲーの「紙芝居」のあり方が変わってきているように思えます。まるで人形劇のような。

by udk
 見たままを表わすなら「立ち絵」
 機能/制作上の使われ方を表わすなら「汎用絵」

になるでしょうか。立ち絵の使われ方が多様化して立ち絵が様々な意味を持った作品では「汎用絵」と言ってもよいのではないかと考えています。

 一部のノベルゲームの「紙芝居」から「人形劇」への移り変わりについては今回の演出考察シリーズの最後で話題に出すので、楽しみにしていただけたらと。

by 職場のマナー
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

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立ち絵が座る瞬間 ~立ち絵演出考察(1)立ち絵配置による舞台形成~ 

2012年04月04日 ()
 

◆立ち絵が座る瞬間


 ノベルゲームではお馴染みの立ち絵ですが、ここで問題です。この立ち絵を使ってキャラクターが座っている状態を作るにはどうすればいいでしょうか?



 何の変哲もない立ち絵


 キャラクターが座っている立ち絵を新規に書き起こすというのもひとつの手ですが、ここでは通常の立ち絵(立っているポーズ)を使用することとします。
 答えはこちら↓



続きを読む↓
















 立ち絵が座る瞬間


 はい、座りましたー。
 ちゃぶ台にうまく隠れるように立ち絵の位置を調整して、あたかも座っているように見せかけています。
 うまい立ち絵配置のひとつです。

 では、次に、このちゃぶ台に10人のキャラクターが座っている場面を作るにはどうすればいいでしょうか?
 答えはこちら↓























 恋色空模様_10人座り


 はい、10人座りましたー。
 立ち絵の配置をうまく調整して、10人のキャラクターが座っているように見せかけています。
 ちょうど主人公がいるであろう場所もしっかり空けて。
 ちゃぶ台に10人が勢揃いしている場面は若干……どころではなくやりすぎ感が漂いますけど、こんな無茶なこともできるようです。



 今例に挙げているすたじお緑茶の『恋色空模様』では他にも様々な場面で立ち絵が座っていました。


 座る校長

 座る紳士



 なかなか見事な腕前です。どれもちゃんと座っているように見えます。


 さて、このように立ち絵を座らせるためには、技術的にどのようなことが必要になるかというと……

 (a)画面上X,Y座標の任意の位置に対象物(立ち絵・背景)を配置可能であること。
 (b)対象物(立ち絵・背景)を任意の値に拡大・縮小することが可能であること。
 (c)対象物(立ち絵・背景)のレイヤーを自由に設定可能であること。
 (d)背景が複数の絵を組み合わせたものであり、背景中のある絵のレイヤーだけを自由に調整可能であること(上記の画像で言うちゃぶ台のレイヤーが自由に設定可能であること)。

 簡単に考えると上の4条件が必要になるのではないかと思われます。他にも必要な条件はあるかもしれませんが、大事なのはこの4条件でしょう。
 (技術案件とは違いますが、立ち絵の差分を多く用意しておくことも重要です)



 『恋色空模様』では座っている以外に他にも……


 あとは教壇があれば完璧
 金髪ツインテールの悪魔



 集会や下駄箱での風景といった難しいものもうまく表現しています。このように、立ち絵の配置を工夫することによって、一枚絵とまではいきませんが、それに近い特殊な場面を生み出すことに成功しています。
 『恋色空模様』ではこのような立ち絵の配置を工夫した演出が随所に見られました。この背景における立ち絵の配置を利用した舞台形成に関してはすたじお緑茶は現状ではトップクラスでしょう。

 一応、こうした表現は他のブランドでもいくつか見ることが出来ます。


 このうちひとりはデフォルトで座っているキャラだったり……
  ↑晴れときどきお天気雨(ぱれっと,2011)

 立ち絵と一枚絵の区別が難しいところですが、おおそらくこれは立ち絵的素材
  ↑魔法使いの夜(TYPE-MOON,2012予定)


 このようにいくつかの先進的なブランドでは立ち絵による舞台形成が試みられています。
 一枚絵さながらの場面を作れるこの演出、効果的に使えば、既存の素材を組み合わせて様々な状況を生み出せることでしょう。








◆立ち絵配置による舞台形成へ至るまで



 立ち絵配置による舞台形成ですが、この背景と立ち絵の位置関係というのはノベルゲームの発展と共に進化していった側面を持っています。



(1)その昔、背景と立ち絵はそれぞれ独立した機能を持っていました。立ち絵はそこにいるキャラクターを、背景はそのキャラクターがいる場所をそれぞれ表わしていました。背景の中で立ち絵が立っている位置にキャラクターがいるわけではありません。立ち絵と背景は別々の意味を持っていたわけです。


 高次元の認識に向かい!上りたまえ!



(2)それから立ち絵の位置をある程度調節できるようになり、立ち絵と立ち絵の位置関係からキャラクターの距離感、立ち絵の大きさから視点人物との距離感(遠近感)を表わすことができるようになりました。


 科学部部長のお言葉
  ↑3人のキャラクターの距離感
 弁証法的螺旋階段! 高次元の認識に向かい、上りたまえ
  ↑視点人物と他のキャラクターの距離感



(3)さらに立ち絵を自由な位置に配置させることができるようになると、背景を舞台に立ち絵を使って一種の場面を形成することができるようになりました。


 ギャーーー!!

 戦闘シーンです



 つまり、どういうことかというと……
 (1)での立ち絵は、背景の場所にキャラクターがいることを表わす。
 (2)での立ち絵は、背景の場所でのキャラクター同士の距離感を表わす
 (3)での立ち絵は、背景の中でキャラクターがどこで何をしているのかを表わす。


 このように独立した役割を持っていた立ち絵と背景が、背景の中に立ち絵を埋め込むことによって共存しているわけです。背景と立ち絵を組み合わせることで新しい意味を生み出すことに成功しています。

 こうして並べると、ノベルゲームの演出の進歩の一例(※1)を見ることができます。
 新しい技術で、新しい何かができるようになって、新しい表現が生まれる。その技術というのはもともとこんな表現をやりたいというアイディア(要求)によって生まれたものです。この進歩はアイディアと技術のふたつがうまく合わさった結果と言えるでしょう。
 そしてそれだけではなく……、立ち絵と背景を組み合わせて場面を形成するのは、従来の立ち絵演出と比べてかかる労力(スクリプト作業※2)がとても大きいと想定されます。技術を以てそれを成し得たことも評価できるポイントのひとつでしょう。



 ノベルゲームならではの表現技法“立ち絵”、その立ち絵も配置によってこれほどのことができるようになりました。この立ち絵配置による舞台形成で、テキストでは表現しきれなかった新しい表現が行われることに期待していきたいところです。







※1:もちろん、これとは別の方向に進歩していった作品もあります。
   例:背景の中にキャラクターを書き込む手法など。『腐り姫』Liar,『ef』『eden*』minori他
※2:スクリプトを打ち込んでいく作業も大変ですが、どのようにキャラクターを配置するかという点でシーン毎に配置を考える演出的な作業も時間がかかるようになると考えられます。





 参考:立ち絵が走る時 ~立ち絵演出考察(2)立ち絵による運動表現~ -udkの雑記帳-
    テキストウィンドウ考察(1)可変型テキストウィンドウの可能性 -udkの雑記帳-
    ノベルゲームの演出が行き着くところ ~ノベルゲームの技術進歩と未来~ -udkの雑記帳-
    恋色空模様 演出考 ~脱紙芝居。紙芝居から人形劇へ。演劇的立ち絵表現の追求~-udkの雑記帳-
    演出論的覚書:Ⅰ章2節:すたじお緑茶の立ち絵演出 -cactus backyard- 
    演出論的覚書:Ⅲ章1節2款:ぱれっとの空間的演出 -cactus backyard-





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[2012.04.04(Wed) 21:30] ノベルゲーコラムTrackback(0) | Comments(4) 見る▼
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by cactus
 拝読しました。連載の途中でコメントを差し上げることに躊躇もありますが、書かせていただきます。前半部分、立ち絵のスクリプト指定によって様々な視覚描写が可能になるというご指摘は適切だと思いますが、後半部分――そうした表現が試みられてきた経緯――についていくつか疑問があります。
 一つは、「AVGは当初は、背景画像は場所を、立ち絵は人物を、それぞれ別個独立かつ抽象的に示すものだった」という認識について。『ポートピア~』のようなドット絵の時代ならいざ知らず、少なくとも「サウンドノベル」(『かまいたちの夜』1994年)乃至は「Visual Novel」(『雫』1996年)に関しては、それが成立した最初の瞬間からすでに、人物画像と背景画像のすり合わせと組み立てによる画面構築は存在しました、あるいは、そうするのが当然でした。むしろ、我々が現在知るような「立ち絵/背景」のきれいな二分法は、人物と背景の柔軟で複合的な組み立ての中から次第にシステマティックに分離され整理されてきたものではないかと思います。つまり、この記事で仰っている「ノベルゲームの発展」のプロセスは、立ち絵の機能と可能性に関する「論理的」な説明の順序としては非常にクリアで説得的なものですが、実際の「歴史的」経緯としてはむしろ逆ではないかと思われます。ここで想定しておられるような抽象的な立ち絵/背景システムは、AVGのプロトタイプにすでに存在していたものなのではなく、またその歴史の比較的初期のある時点でそれなりに優勢であったとしてもそのタイミングを歴史上の原点と見做すべき理由も無く、そして実際には常に例外的な実験作――例えば『終ノ空』『白詰草話』『Forest』――の中にのみ現れ続けてきたように思います。
 具体例に即して述べますと、例えば1994年『かまいたちの夜』では、人物画像は単色影絵形態ながらすでにその都度の背景画像に正確に組み込まれた形で画像制作されていました(例:階段の途中から見下ろす姿、ソファに腰掛ける姿、玄関口に現れた遠景の姿、等々)。1996年の『痕』でも、仏壇に向かって正座する姿やベッドに寝そべる姿などの「立ち絵」が使用されています。AVGにおいて「立ち絵/背景」の明確な二分法が確立されたのは『To Heart』(1997年)あたりが契機かと想像されます(私も当時の状況はよく知りません)が、さらに2001年、『君が望む永遠』や『はるのあしおと』においても、立ち絵による空間表現や立ち絵の背景への嵌め込みははっきりと意識されているのが見て取れます。
 もう一つ。立ち絵による着座表現のために必要な技術的条件について。トリヴィアルな話になりますが、立ち絵のサイズ変化は「任意」の倍率である必要は無いと思います。その作品のデフォルトと見做されるサイズから、「大きい」形態と「小さい」形態とが識別できればよいので。実際、そうしたサイズ差分は、スクリプトエンジンによって拡縮制御されている場合もありますが、そうではなくて単純にサイズの異なる数種の画像がデータとして用意されているという場合もあり、そして距離感表現の表現効果を評価するうえで双方の違いは重要ではありません。
 あと、minoriもこの流れに属する一例と捉えてよいのではないかと思います。特に『eden*』では、ああ見えて汎用立ち絵もわりと使用していた憶えがあります。
 いずれにせよ、個別的な「演出技法」の話を超えた、AVGに関する正格の「表現システム論」の水準での貴重な論考に、たいへん考えさせられました。立ち絵がどこまで/どのように記号的でありあるいは写実志向的であるのか。立ち絵スクリプトが舞台を作り出していくのか(緑茶)、それとも背景が積極的に舞台を提供していくのか(minori?)、あるいは応用として中間形態(ぱれっと)や複合形態(clochette)にどのような可能性があるのか。などなど、視野が広がりそうです。
 (長文失礼しました。)

by udk
 丁寧なコメントありがとうございます。
 このシリーズは全4回の予定なので連載というほど長くはありませんが、よろしければもうしばらくお付き合い下さい。

 少々遅くなりましたが、コメントの方のレスを。



立ち絵と背景の経緯について -ToHeart以前-

 定かではありませんがToHeart以前以降という括りで話を進めていきます。
 ご指摘の通りサウンドノベル時代の経緯としては怪しいものになっています。『ToHerat』以降の流れとしての発展になっていますね。これについては補足が必要になりそうです。
 立ち絵と背景の区別が意識されていなかった時代から、立ち絵と背景を二分する方にシフトしていった流れは検討してみるとおもしろそうですね。マルチウィンドウのシステムが廃れてしまったようにその時代に何があったのか、というのは興味をそそられます。


立ち絵と背景の経緯について -ToHeart以降-

 これはおそらく私とcactusさんの認識がずれている部分だと思います。私はPC美少女ゲームのうち、ノベルゲーム分野では現在でもほとんどの作品が「立ち絵と背景は独立している」と考えています。本記事で示した(2)の場合だと、立ち絵と背景は独立していると捉えています。『終ノ空』は別に例外ではないでしょう。むしろ例外なのは、立ち絵を背景に溶け込ませるように配置させている作品です。
 偶然、立ち絵を背景とマッチできるように配置できている作品はたまにありますが、絶えず意識して立ち絵と背景を組み合わせて場面を作ろうとしているブランドはごく少数です。minoriやぱれっとはその少ない中の例です。minoriは『はるのあしおと』以降演出を大きく変えていて、演出の手段のひとつとして立ち絵(汎用絵)を背景と組み合わせるということもなされています。ぱれっとは立ち絵と背景が独立しているシーンがほとんどですが、比較的実現容易ないくつかの限られたシーンについては徐々に立ち絵と背景を組み合わせが行われていっています。clochetteは未プレイなので、コメントができないです。
 背景と立ち絵が独立している作品群の中に、緑茶、minori、ぱれっとのように立ち絵と背景を組み合わせる表現を進めていっているブランドがあるというのが私の認識です。


立ち絵サイズの拡大縮小について

 緑茶の演出基準で考えていたら拡大縮小の機能も必須の技術要件と考えてしまいました。あらかじめ拡大縮小した画像を用意しておくのは確かに有効でしょう。拡大縮小した画像を数パターン用意するだけで良いのならそれで十分だと思います。広義での差分を多く用意するということになります。
 ゲームエンジン上で拡大縮小ができないとしんどいのは拡大縮小が何種類も必要な場合でしょうか。その都度立ち絵の大きさを調整して場面を作成したり、立ち絵を移動させながら拡大縮小したりする緑茶レベルの演出の場合でしょうか。ぱれっとがやってるレベルだと無理に倍率調整しなくともなんとかなりそうですね。



 今回は『恋色空模様』を中心に話を進めていきますが、他のブランドでどのような演出が行われているかということもいつか検討していきたいです。さしあたってclochetteに少々興味が……。

by cactus
 お返事ありがとうございます。
 立ち絵画像と背景画像の独立性に関するお互いの立場の違いは、「認識がずれている」(認識の違い)というよりは、用語法の違いに還元できる面もあるように思われます。現在の大多数のAVGタイトルは、「正面構図の背景画像と、その背景画像の形状に対して《それなりに》マッチしている立ち絵正対画像の中央/並列表示」という組み立てで成り立っています。こうした立ち絵のサイズ及び位置指定は、その瞬間毎の特別の具体的描写を行うものではないにしても、少なくとも、《それらしく見えるように》――つまり、立ち絵が水上や車道や机上に立っているようには見えないように――最低限の配慮がなされているのが通例です。もしも本当に理念上独立に扱われ得るならば、(例えば『Forest』のように)遠景俯瞰の背景画像や宙空に浮いた立ち絵表示を採用しても構わないわけですが、ほとんどの作品は「(曲がりなりにも)地に足の着いた」形で背景+立ち絵の組み立てを行っています。そのように、”積極的”な表現を行っているのではなくとも、「違和感を与えない」という程度の”消極的”なすり合わせはたいていの作品で確保されています(――引用しておられる『素晴らしき日々』画像では明らかな齟齬が見られますが、私はこれをレアケースとして認識しています)。このような「弱い整合性配慮」について、udkさんは「偶然、立ち絵を背景とマッチできるように配置できている作品はたまにあります」と仰っていますが、私見では(1)それらは偶然ではなく意図された構図選定に基づくものであり、かつ(2)それらはけっして少数ではなく広く行われている一般的な制作上の考慮だと考えており、そして(3)私はこれを「具体的(写実志向的)な組み立てが存在しない=『絶えず意識して立ち絵と背景を組み合わせて場面を作ろうとしている』わけではない=独立性がある」という捉え方の側に寄せるのではなく「具体的(特定的)な"強度の一致"は無いが、弱い(消極的な)整合性配慮は確かに存在する」という側に寄せて分類しているということです。結局のところ、明示的な相互独立スタイル(『終ノ空』『白詰草話』『Forest』『シャルノス』『空帝』『忍流』等)と、具体的な嵌め込みスタイル(『はるおと』『オルタ』『片恋いの月』『eden*』『ましろ色』等)という両極の間には、「弱い(消極的な)整合性」の豊かで多様な中間項が広がっており、その中間項をどちら側に引き寄せるかの問題であるように思われます。

by udk
 コメントありがとうございます。独立である/独立でないの二元されていたものに中間を取り入れることでより整理しやすくなりました。
 これでだいぶ私とcactusさんの間のすり合わせが行われたと思います。

 ・明示的な相互独立スタイル
 ・弱い(消極的な)整合性
 ・具体的な嵌め込みスタイル

 この3つに分類するとして「弱い(消極的な)整合性」を独立であるか独立でないかとするということですね。これ以上は個々人の感覚によるところなので、「弱い(消極的な)整合性」をどちらとするかはおいておきましょう。

 その「弱い(消極的な)整合性」に含まれる作品群の中でも、そのすり合わせがどの程度行われているかというのは作品によって異なるでしょう。すり合わせがうまくいって立ち絵との齟齬が少ない作品もあれば逆に齟齬が多い作品もあります。そして、それは作品内でも、すり合わせがうまくできている背景と全くできていない背景があると考えられます。本記事であげた『素晴らしき日々』の画像は決してレアケースではありません。背景絵をいくつも用意できる作品ではその都度場面にあった背景を用意することができますが、用意できる背景絵が限られている場合簡単に齟齬が生じてしまいます。本記事の『素晴らしき日々』の2枚目の画像の場合、授業中の背景絵はこれ一枚であり、授業中は全てこの背景を使用しなければなりません。そのために授業中に登場人物が起立しているこの状況では全て齟齬が生じているわけです。このような状況はこのシーンだけに限りませんし、他の作品でも見られるものです。逆に『素晴らしき日々』でも比較的齟齬が少ない場面もあります。背景の構図指定がうまくいき、立ち絵の配置条件も整った結果、作品内で「具体的な嵌め込みスタイル」と大差ないレベルの場面が作られることはあると思います。


 3つに分類するとしても境界上の作品があったり、その中でもどの程度分類の趣旨にあった作品になっているかは、作品がいくつも存在している限りケースバイケースになってしまうので難しいですね。

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絵とネタバレと 

2012年04月03日 ()


 最近、いつもよりこのブログの記事への反響があって嬉しいudkです。

 ●フェイスウィンドウの機能についての覚書 -cactus_backyard -
 ●音楽による作品選出、あるいはその受容について -À Pour mort d'or-

 どちらの記事も私の記事より深く突っ込んだ内容を書いてあるので、オススメです。


 今度は逆に私の方が他の方の記事から何か1本書いてみようかと思います。
 BGMの方は上手く語れないと公言したので、少しは語れる演出の方の話を。
 すたじお緑茶『恋色空模様』の演出についてです。cactusさんの演出論の方にすたじお緑茶の演出話がありまして。

 ●演出論的覚書:Ⅰ章2節:すたじお緑茶の立ち絵演出
 
 ことあるごとに緑茶演出の話が出てきて気になったので、私も恋色空模様をやってみました。
 やってみて作品の演出で思うところがいろいろあったので私の方でも簡単な演出考をやってみます。緑茶演出で特徴的なことはだいたい演出論的覚書の方でやってるので、たいして新しいことは書けませんが、私なりの論をということで。前々から書いていた記事なんですけど、この機会に公開していきます。
 というわけで次回から演出考が何回か続きます。お楽しみに。






 告知だけだと寂しいので、恋色空模様の話でも。このあとしばらく演出話しかやらなくなるので、他のことについてもふれておきましょう。

 恋色空模様は製品版発売前に体験版をやっていまして、このブログに感想を掲載しています。

 ●恋色空模様 体験版 感想 (2009年10月)

 絵がいい。

 るちえの原画と淡い色調の塗りが最高。これは思わず絵買いしてしまいそうなレベル。
 るちえいいよ、るちえ。



体験版はこんな感想だったようです。そのあと、恋色空模様の発売月の時のコメントでは「期待度 75(絵:90)」とまでしていて、とても絵に期待していたようです。


恋色空模様 Amazonのページへ
タイトル     恋色空模様
メーカー     すたじお緑茶
発売日     2010年3月26日予定
シナリオ     氷雨こうじ
原画       るちえ  
期待度      75(絵:90)




 で、恋色空模様をやり終わってどうだったかというと……



 絵がいい。

 るちえの原画と淡い色調の塗りが最高。これは思わずファンディスクの『after happiness and extra hearts』も絵買いしてしまいそうなレベル。
 るちえいいよ、るちえ。


 期待した通りの絵の出来で大変満足でした。



 これより内容についてふれるので、ネタバレ注意


続きを読む↓




 って書いてどのくらいの人が避けるのか知らないですけど一応書いておきます。このブログではちょっとくらいのネタバレでは何も書かずにいるのですが、今回は書いておきます。つまり、そういうことです。
 エロゲー界隈ではネタバレを異常に嫌う傾向があって、ネタバレをするとなんだか恐ろしい目にあわされるようなそんな空気があります。レビューサイトさんでもこれ以上はネタバレだからと何も書けない的なところもありますし、やはりそうとう気を遣ってるんでしょう。そんな中、このブログは形振り構わずネタバレだろうとなんだろうと書いていく傾向にあります。一部の気をつけないといけない作品だけ注意文を書いているわけですが、でもそうやってネタバレ注意と書いてあるのはそれ自体が結構ネタバレになるという話で……ネタバレ注意と書いてある作品には何かシナリオの中身を知ってしまったらおもしろくなくなるような何かがある、という風にも取れまして、ネタバレがあるから詳しくは言えないと言う人が何人もいたら、それがネタバレになってしまうんですね。叙述トリックがあるのかも?と思う人も出てくるでしょう。
 こんな前置きを長々と書いているのも今回叙述トリックについてふれるので、一応の防止線でやっているわけです。ネタバレを忌避している界隈に叙述トリックのネタを投げたりしたらどんなことになるかわかりません。そんなことをしたら最悪の場合、次の日に殺られているかもしれません。叙述トリックの場合、この作品の叙述トリックが……と口にした途端殴りかかられる可能性もあるので細心の注意が必要です。
 叙述トリックのノベルゲームと言えば思い浮かぶのはアレとかアレとかアレとか……。数え出すと10を超えます。どの作品が該当するかは殺られてしまうので口にはできませんが、割と数はあります。ノベルゲームの叙述トリックで多いのは視点を使った何かでして、基本的に主人公の一視点だけで物語が進むのでいろんなことを仕掛けられるわけですね。

 こんな感じで前ふりを長々と書いてしまうとこのあとで話す内容のハードルがあがってしまってよくないですね。恋色空模様の話はそんなたいした話はしないので、あまり期待しないでください。





 恋色空模様の絵の話。
 ノベルゲームにおいて語り手のキャラクター(主人公)は画面構成上ビジュアルが描かれないことが多いです。恋愛ゲームの都合上というのもありますが、あまり描かれません。それはノベルゲームの画面では語り手から見た擬似的な風景が描かれるためです(例外もありますけど)。恋色空模様も例に漏れず、主人公のビジュアルはほとんど出てきません。



 自称変態紳士の発言
  ↑ 恋色空模様の主人公の同級生(男)、一番左と一番右


 しかし、ある程度読んでいると読み手の方で主人公像が固まってくるものでして、私の場合恋色空模様だと他の同年代の男キャラを参考に想像でビジュアルが固定されていきます。
 ところが、いざ主人公が登場シーンが描かれると……










恋色空模様_男の娘?
 いつから主人公のビジュアルが普通の男だと錯覚していた!

 あれっ、主人公がいない……
 可愛い女の娘がふたり……
 あ、あの右の可愛い子がひょっとして、いやいや、こんな可愛い女の子が……いやいや
 これは可愛い子ふたりがえっちぃことをやっていると想像すれば……いやいや


 突然の可愛い主人公の登場に困惑し、吹き出してしまいました。他の男キャラは普通で、可愛い系のビジュアルではなかったもので、不意をつかれました。
 主人公のビジュアルを描かなくても良いということを使って、こんな風に読み手を引っかけることも可能なんですね(私が勝手に騙されているだけとも言いますが)。他にも主人公が可愛すぎる作品はあったような気がします(よく覚えてない。
 主人公のビジュアルで吹くと言えば、こんなのはどうでしょう。





 和菓子を出せる偉い人
  ↑ D.C.~ダ・カーポ~(circus,2002)

 可愛い系とは逆にビジュアル設定がない主人公に無理矢理表情をつけようとして、ひどい有様になっています。当時は主人公の顔無し作品が多かったのでさほど気にならなかったかもしれませんが、今改めてみるとすごく違和感があります。




 以上、恋色空模様の主人公のビジュアルが可愛すぎという話でした(違。

 別に叙述トリックでも何でもないだろうと思う人が大半かと思いますが、まあ、これの発展系でまあいろんなことができるので、勘の良い人は気付いちゃうためです。そんな人は作品読んでても気付いちゃうのでそんな気にすることもないかもしれませんが。


 ああ、こんなことを語った私には死が待っているかもしれない……





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[2012.04.03(Tue) 22:10] ノベルゲー雑記Trackback(0) | Comments(2) 見る▼
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あえて呉氏には触れませんでした(ネタバレ) by 近代衣服の残響
長文になりそうなのでこちらで。すいません。

叙述トリックは、ある意味「詐欺」とも呼べるもので、
それをビジュアライズするとなると、なるほど、今まで見過ごされてきた部分が白日のもとにさらされます。
(さらに言えば、「これはミステリだよ」と言うことすら、ある種のネタバレだと言えます)

逆に、設定倒れになっているケースもあります。
「ましろ色シンフォニー」
RococoWorks「airy{f}airy」
両者とも、主人公のビジュアルが設定されているにもかかわらず、作中では立ち絵としてすら使われることがない事実。
前者は、草食性のちょい癖っ毛のビジュアルは、それはそれで悪くなかったのに…
後者は……ああ、もうメーカーページが消滅……(泣)

さらに別に、最近沈黙が続くmarron(竹井10日氏はラノベでは絶好調なのに)は、毎回超絶イケメン設定なのに、
ビジュアルなし(=目隠し主人公)という。想像力で補完せよとのことなのでしょうか。しかしそれにしても……。

振り返ってみると、主人公が全面に出るのは、群像劇や、三人称エロゲの場合が多いです(というかそうしなければ進まないというか)。
成功例として、アトラク、カタハネ、鬼哭街、ヴェドゴニア。
思えばアリス、ニトロ、Rococoはこういうのが多いですね(ぼるしちは作品としてどうだったのか……と問われると……いや好きなんですが……)。
しかし、聞いてびっくりだったのですが、今の御時世、
「群像劇は売れない」「三人称は駄目」「複数主人公はNTR」「群像劇はNTR」
……そこまで言われるとは思ってませんでした。神経質な世の中。

そんななか、「はがない」の小鷹のキャラ造形&デザインは、結構挑戦だったのではないでしょうか?(ラノベですが)

そして叙述トリック最大のネタバレが、AIRではないでしょうか?

あと、立ち絵が全面に出ている主人公として、奥の手は、やはりランスですね。自重という言葉を知らない好き勝手。

もともと妄想で「美形設定」を膨らませるのは、むしろ小説がイラストなしで読まれていた時代の、
ある種の「本読みの特権」でありましたが、こうして「公式ビジュアル」がデフォの時代になると、
「詐欺」さえも起こってくるのだなぁ、と、こうして書いてて、むしろこの二十年くらいでの、
活字媒体におけるビジュアル優勢の潮流のシフトを思った次第でした。

叙述トリックにはふれない方向で by udk
ネタバレの難しいところは人によってその基準が異なり、ミステリっていこうことすらネタバレになってしまうことなんだと思います。

最近の美少女ゲーム(恋愛系のゲーム)では主人公のビジュアル設定があるものも増えてきましたね。『ましろ色シンフォニー』の場合、立ち絵を用意しないのはコスト的な意味があるにしろ、一枚絵で主人公の表情を表示するのを避けているものが多くて残念でした。Hシーンは仕方ないにしろ、それ以外のシーンでは主人公の表情があってもいいんじゃないかと思いますね。

ヒロインを売りにする恋愛系ゲームに対して主人公のビジュアルがしっかりと描かれるのは、主人公の個性を出していく作品でしょうか。物語上、主人公の「個」が重要な作品では主人公のビジュアルを描いています。そうした作品では主人公の話を作りやすく、主人公を中心に話を進めていけるのでシナリオもよくできていることが多いですね。成功例にあげてもらった作品(アトラク、カタハネ、鬼哭街、ヴェドゴニア、はがない)はどれも主人公のキャラクターがしっかりできてますね。

>「群像劇は売れない」「三人称は駄目」「複数主人公はNTR」「群像劇はNTR」
しかし、こういう意見は残念ですね。「売れない」は別にして、主人公に自己を投影する読み方の人が多いんでしょうか。もうちょっと視野を広げてもいいんじゃないかと思います。ネタであると信じたいところです。

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「何のためにあるのか?」 フェイスウィンドウ考察 

2012年03月20日 ()

◆フェイスウィンドウって?

 ノベルゲームにはフェイスウィンドウというものがある作品が存在します。


 ゆうべはお楽しみでしたね
  ↑祝福のカンパネラ(ういんどみる,2008)


この絵でいう画面左下のキャラクターの上半身(顔)が表示されている部分です。キャラクターの顔を切り取り、枠の中に表示させていることからフェイスウィンドウと呼ばれています。今回はこのフェイスウィンドウについてどうしてこんなものがあるのか考察していきます。




◆他ジャンルの画面構成 -RPGを例に-

 もともとこのフェイスウィンドウ、ノベルゲームよりも他のタイプのゲームで見る機会が多い表現です。

 空の軌跡シリーズはシナリオ的には碧の軌跡が一番ですかね
  ↑空の軌跡 the 3rd(Falcom,2007)

 空の軌跡というRPGの一場面です。画面上のキャラクターの台詞が表示されているウィンドウにしゃべっているキャラクターの絵がいっしょに表示されています。どうしてこのフェイスウィンドウがいるかというと、それは作品の画面構成によります。
 この作品の場合、画面は3つの要素で構成されています。

 ① 背景……キャラクターがいる場所の様子を示す
 ② ドット絵……背景の中でキャラクターのいる場所とキャラクターの大まかな様子を示す
 ③ テキストウィンドウ……キャラクターの会話を示す

これらの要素を使ってストーリーを展開していきます(ゲーム部分はまた別の構成になりますが)。
 ですがこれだけだと不便なところもあって……ドット絵の場合、キャラクターの外見の詳細や表情はわかりません。そこで、フェイスウィンドウの出番となるわけです。キャラクターの表情を絵で出すことでテキストを読まなくても簡単な喜怒哀楽がわかるようになっています。これがRPGで使われるフェイスウィンドウの一例です。



◆ノベルゲームの画面構成

 では、ノベルゲームの話に戻ります。RPGでもストーリーを語るという要素はありますが、ノベルゲームの場合、選択肢という要素以外のゲーム要素がほとんどなくなり、ストーリーを語ることを特化させた形式のゲームとなります。ノベルゲームの場合、画面構成は以下のようになります。テキストが画面全体に表示されるタイプの作品もありますが、今回それは省きます。

 バニッシュだ!
   ↑はつゆきさくら(Saga Planets,2012)

 ① 背景……視点人物から見た現在地の情景
 ② 立ち絵(一枚絵)……視点人物から見たキャラクターの大まかな様子を示す
 ③ テキストウィンドウ……キャラクターの会話、視点人物の心情等を示す

先に例に出したRPGと比べて違うのは、ドット絵が立ち絵になっているところですね(RPGでも立ち絵っぽいのが使われることもありますけど、ノベルゲームの方が強い要素なので)。また、RPGは第三視点から俯瞰した情景を表示しているのに対し、ノベルゲームでは主視点から見た情景になっていて語り方も変わってくるのですが、これについては割愛。
 背景/立ち絵(一枚絵)/テキストウィンドウ、この3要素がノベルゲームを構成する大きな要素です。

 で、これにフェイスウィンドウが加わっている作品が存在します。ノベルゲームの場合、立ち絵でキャラクターの表情を表現できるのに、わざわざテキストウィンドウの横にフェイスウィンドウを付け加えています。どうしてこんなことをするのでしょうか?
 というわけでフェイスウィンドウの役割を考えてみました。




◆フェイスウィンドウの役割
(1)制作コスト


 ひとつには制作コストの制限によるものがあります。立ち絵の差分を多く用意するというのはそれなりのコストが生じます。しかし、立ち絵ではなく表情だけの差分でいいとしたら、描かなければならない量が減るのでコストを大きく減らすことが出来ます。

 ごらんの有様ではありません
  ↑魔法少女アイ2(colors,2002)

 このような作品の場合だと、立ち絵はただキャラクターがいるということを表示しているに過ぎません。キャラクターの表情差分は全てフェイスウィンドウで表示されるので、立ち絵は文字通りただ立っているだけです。魔法少女アイの場合一枚絵時の差分にもフェイスウィンドウが関わってくるのですがそれは(5)で。


(1’)制作方法

 また、制作コストとも関わってくるところですが、作品の立ち絵の使われ方もまたフェイスウィンドウの採用の可否を握るところです。
 戦闘シーンやHシーンが多いゲーム等では立ち絵よりも一枚絵が主体となり、立ち絵のバリエーションを用意するよりもとにかく一枚絵をたくさん用意しなければなりません。そこでそれほど多くない立ち絵のシーンはフェイスウィンドウで済ませるという方法をとることもあります。

 村正の画面構成はとてもおもしろいので、いつか考察したいところ
  ↑装甲悪鬼村正 邪念編(2010,NitroPlus)




 このようにフェイスウィンドウは制作上の都合で使われてきましたが、近年、再びフェイスウィンドウを使用する作品が増えてきています。




(2)ウィンドウのワイド化

 ここ数年のPCディスプレイのワイド化に伴い、PCノベルゲームもまたワイド画面にシフトしていっています。ワイド画面になってもテキストウィンドウはどこまで大きくできないので、画面下部のスペースが余ってしまいます。そのスペースにフェイスウィンドウを入れている作品が増えてきています。デザイン的にフェイスウィンドウを挿入してるのもあるかもしれませんね。
 ①であげた装甲悪鬼村正もワイドディスプレイならではの画面の使用方法です。



 しかし、ワイド化でフェイスウィンドウを追加したような作品では立ち絵の差分は十分に存在しています。立ち絵を全て用意してなお、フェイスウィンドウも実装しているのです。


(3)テキストの横にあった方が読やすい

 ノベルゲームの画面においてユーザーの視線は主にふたつの場所を行き来します。それはテキストの表示部分とグラフィックの表示部分です。ユーザーは基本的にテキストを読んでいきますが、立ち絵等のグラフィックが変化すると視線がそちらに移動します。意識せずに何万回と上下の往復運動を行っているわけです。
 この視線の移動が少なければ、それだけ読む分には楽になります。フェイスウィンドウの場合、立ち絵を気にせずに読むことも出来るので、テキストとその左のバストアップを並べて読むことができ、負担を減らすことが出来ます。

 ユースティアやった方がいいんでしょうかねぇ
  ↑穢翼のユースティア (August,2011)



余談:フェイスウィンドウと立ち絵と

 しかし、近年では演出上、立ち絵を動かす作品の割合も増えてきています。その場合、立ち絵の方を見なければならないので、フェイスウィンドウのお役ご免です。フェイスウィンドウの得意なところは立ち絵演出によって消えてしまうわけです。この場合、立ち絵とフェイスウィンドウ、どっちを見ればいいんでしょう?通常立ち絵とフェイスウィンドウとテキストウィンドウの3つとなるとちょっとしんどいです。実際は無意識的に切り替えているのかも知れませんけど。



(4)誰が何をしゃべっているか

 立ち絵がない画面外のキャラクターの発言時、誰の発言か、フェイスウィンドウがあればわかりやすいです。発言者の名前がついてあったり、ボイスでも判別が効きますが、フェイスウィンドウも一役買うことが出来ます。

 ハイパーハイスピード! スッキュゥゥンッ!
  ↑Hyper→Highspeed→Genius(ういんどみる,2011)

 ドクター・ウエストである
  ↑斬魔大聖デモンベイン(NitroPlus,2003)

 参考:「今、誰がしゃべっているのか?」のエロゲ的表現の分類と考察 -散録イリノイア-



(4’)誰がいるか

 位置可変型テキストウィンドウ(吹き出し式、ボックス式)を採用している作品では以下のように誰がいるかをフェイスウィンドウで表わすことも出来ます。


 演出的にいろいろ見所がある恋色空模様
  ↑恋色空模様(すたじお緑茶,2009)



(5)一枚絵の時の表情差分

 立ち絵だけでなく、一枚絵が表示されている状況であっても、フェイスウィンドウを表示することが出来ます。一枚絵は立ち絵とは違い、特殊な状況であっても表現できる便利さを備えていますが、立ち絵に劣る部分もあります。それが差分です。
 一枚絵の場合、差分を作り、いくつもの表情をキャラクターに持たせることはそのために作られた立ち絵のそれよりも難しいです。ですが、一枚絵にフェイスウィンドウを表示させることによってそれを簡単に補うことが出来ます。

 フェイスウィンドウ_ゆあ日記1
 フェイスウィンドウ_ゆあ日記2
 フェイスウィンドウ_ゆあ日記3
  ↑your diary(CUBE,2011)


 しかし、そうすることによって起きるのが一枚絵の価値の低下です。一枚絵が表示されても表示されたその時以降は、一枚絵の切り替わりを除いてフェイスウィンドウ(立ち絵)の方を見てしまうわけです。立ち絵が一枚絵を駆逐するとまではいいませんが、一枚絵の役割が特殊な情景を出すこと、画面構成の変化(立ち絵→一枚絵の切り替わり)に限定されることになるでしょう。
 ただし、フェイスウィンドウを実装しているゲームの全てが一枚絵にフェイスウィンドウをさせているわけではありません。表示されない場合もあります。あるシーンでは一枚絵のみを表示させ、ある部分では表情差分が足りないからフェイスウィンドウを表示させる、例に挙げた『your diary』はそんな感じでうまく使っていました。
 あと、(1)であげた魔法少女アイはHシーン等の一枚絵表示時にフェイスウィンドウで表情差分を加えて絵エロさを演出したりも……

 この一枚絵の関連では、フェイスウィンドウのおかげでその場その場で最適の演出を行うための選択肢が増えたと考えるといいかもしれません。



◆総括

 以上、フェイスウィンドウについて、その役割を5つ考えてみました。
 「フェイスウィンドウなんてただの飾り?」「 ウィンドウデザイン上の都合以外に理由はない?」
まあ、そう言うわれるとつらいですけど、上記のような役割もあるということで。ゲームをやってる最中はあまり気付かない機能ですが、気にしてみるとおもしろいかもしれません。他にも役割はあるのかも。





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[2012.03.20(Tue) 20:45] ノベルゲーコラムTrackback(0) | Comments(5) 見る▼
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COMMENT

by 名無しさん
興味深い記事で面白かったです。
私は個人的にテキストウィンドウとイベントウィンドウが完全に独立している
LIBIDOの放課後恋愛クラブ(PC版)が面白い発想だなと思いました。

PCの高解像度を生かした独立したテキストウィンドウがイベント絵を邪魔せずキャラクターの表情も分かるあのアイデアは
他のゲームでもあってもいいんじゃないかなと思いましたね。

コメント再修正 by udk
>名無しさん

放課後恋愛クラブはさわったことがなかったので、ちょっと調べてみました(実際には人に調べてもらったものですが)。

http://den21.blog76.fc2.com/blog-entry-1238.html

このゲームのウィンドウすごいですね。
今のノベルゲームからは想像もつかない形式で私には斬新に見えます。

by -
ここを見に来るような人なら大丈夫かもしれませんが
村正のシーンはちょっとネタバレ注意なのではないでしょうか?

by udk
>(428)さん

村正のあの画像だけだと何もわからないのでそんな気にするレベルのものでもないと思うのですが、ネタバレって言っちゃうとその瞬間それがネタバレになってしまうのがつらいところですね。

by -
まどかマギカポータブルはフェイスウィンドウのところにキュゥべえがいて、雑誌記事見たとき、一瞬まどかの台詞をキュゥべえが喋ってるように見えたことがありました。^^;

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